過去における戸井の繁栄の歴史は、鰮漁変遷の歴史である。四十年間も鰮の大漁が続いて、鰮によって村が繁栄を極めたという例は、全国でも稀であろう。一網千両という大漁の続いた頃の景気や網元の豪奢(こうしゃ)な生活は、農村の人々には想像もつかない状態であったのである。
「鰮といいば戸井、戸井といいば鰮」と戸井の名が鰮の代名詞のように、全国に喧伝(けんでん)されたのである。ところが鰮漁は鰊漁と同じような運命を辿った。
「江差の五月は江戸にもない」というのは、鰊大漁時代に生れたことばであるが、鰊景気に湧いた福山、江差の鰊もとれなくなり、鰊がとれ過ぎて、その処理に手が廻らず、せっかくとった鰊を、土中に穴を埋って埋め、鰊供養塔を建てたというエピソードのある噴火湾の鰊も全然とれなくなり、鰊に続いて下海岸や蔭海岸で大漁が続いたという鱈漁も天保四年(一八三三)高田屋が没落してからとれなくなり、その後とれ出したのが鰮である。
戸井はもちろん、下海岸で鰮漁が始ったのは、そう古い時代ではない。幕府が蝦夷地を再び松前氏に返還した文政四年(一八二一)以降である。
戸井の鰮大漁は明治三十三年からと書いたが、それ以前にも大漁年があった。然し製造の技術が幼稚であり、製品の需要が少なく、輸送機関が発達していなかったために、村を繁栄させるという水産物ではなかった。
明治以前の戸井の鰮漁については、記録がないのでくわしいことは不明であるが、宮川神社の棟札に「鰮大漁」と書いたものが四枚ある。これによると文政六年(一八二三)天保二年(一八三一)天保十二年(一八四一)慶応元年(一八五六)である。棟札に書かれたこの四年だけが大漁年であったとは考えられない。これ以外に何年か大漁年があったことは確かであるが、何れにしても戸井の鰮漁は文政初年頃から始ったことがわかる。
鰮の沖揚げ
鰮の釜場
大正十年(一九二一)に刊行された『開道五十年記念北海道』に下海岸の鰮漁について、次のように述べられている。
「亀田郡は、地勢上汐首岬を境にして二分される。東部は恵山岬を経て、椴法華の銚子岬までの間は、水が深く、山が聳え立ち、山脚が海に迫り、多くの小さな岬が突き出ている。こういう状態なので、西風が連続して吹いても、風や波を遮断するので、角網漁業に適している。
地曳網場所としては僅かに、尻岸内と古武井だけである。
汐首から西、湯の川までの間は、海底は稍々平坦である。海底のところどころに暗礁がないわけではないが、大体遠浅で海底は砂質なので地曳網漁業を主としている。
汐首岬附近は、津軽海峡を通過する暖流(黒潮の分流)が主として東に流れているが、時には沿岸は西に流れていることがある。(黒潮の反流)この潮は干満、風向その他の条件によって生ずるが、この潮を方言で茅部潮と称している。黒潮も茅部潮も流れが激しくて、屢々二つの潮がぶつかり合う。魚群もこの二つの潮に乗って東西から集まるように思われ、非常に小さな網を使っても大漁することは、他に例がない。
近年は鰮の本場といわれていた地方は、どこでも漁獲が著しく減退し、昔のようなことがなくなった。
亀田郡では、地曳網の夏鰮漁は七月一日から始め、九月末に終る。盛漁期は八月である。秋鰮漁は十月一日から始め、十二月二十日に終る。盛漁期は十一月下旬である。
魚網は十一月一日から始め、十二月二十五日に終る。盛漁期は十一月下旬である。
戸井の鰮漁の変遷を、数少ない記録と古老の記憶をもとにして総合して見ると次のようになる。
1、明治以前の大漁年
2、明治時代の変遷
3、大正時代の変遷
4、昭和時代の変遷
右の表でもわかるように、文政年間から鰮漁が始まり、明治三十三年から昭和十四年までの四十年間も大漁が続いたのである。
戸井の鰮大漁時代には、漁期になると、近郷近在からはもちろん、南部、津軽地方からもたくさんの漁夫や雑夫が、雇(やとい)又は歩方(ぶかた)として入りこみ、戸井の人口は一挙にふくれ上り、大漁になると、函館からいろいろな商人が入りこみ、地元の商店も繁昌して、鰮景気に全村湧き立ったのである。
明治、大正の大漁時代には、各網元は競って袋澗を造り、海岸に護岸の石垣を築いて締粕の置場や干場を広げ、宏壮な住宅を建築し、立派な墓碑を建てたのである。
神社、寺院も、鰮大漁時代に改築したものは、敷地や建物を二、三の大網元が寄附したという例が多い。明治四十二年の二月、村役場が全焼したが、この年の秋、未曽有の大漁に恵まれ、村民の寄附によって翌明治四十三年(一九一〇)十二月、再建された。総工費二三二五円であった。モダンな庁舎として、当時評判になった程立派な建物であった。
汐首岬の沿岸に、長年の間に波に打たれてこわされた袋澗がある。これも大漁時代の名残りである。これは汐首や瀬田来の網元が、枠網につめた鰮をここに入れ、しけによって沖揚げできずに、海へ棄てることを避けるために造ったものである。
即ち、鰮をつめた袋網を入れた澗ということで袋澗と名づけたものである。袋澗を最初に造った網元は、瀬田来の〓小柳吉太郎で、吉太郎が若い頃に、後志(しりべし)地方の鰮漁場へ出稼ぎに行って、見て来たものをまねて、明治四十二年(一九〇九)に造ったものである。小柳吉太郎が造ってから、瀬田来の〓石田玉蔵が造り、大正五年(一九一六)〓吉崎吉松、大正六年(一九一七)汐首の〓境、大正七年瀬田来の〓西崎吉太郎、大正十二年(一九二三)瀬田来の〓吉崎岩吉などが競って立派な袋澗を造ったのである。
明治四十二年に、小柳吉太郎の造った袋澗は、数千円の費用を投じたといわれているので、汐首岬の沿岸の袋澗にかけられた費用は莫大な額であったことが想像される。潮流の激しいことで有名な汐首岬の突端にあのような袋澗を造るためには、函館或は本州方面から一流の石工を雇入れ莫大な人数を動員したものであろう。各網元が袋澗を造った年を調べて見るど、何れも大々漁の年か、その翌年である。巨万の金を投じて造ったこの袋澗も、僅か半世紀もたたないうちに波に打ち砕かれ、鰮大漁時代の遺物として淋しくその残がいを止めているのである。
汐首から館町にかけての海岸に、長方形に突き出ている高い石垣がたくさんあるが、これも鰮大漁時代の名残りである。この石垣は波を防ぐためと、場所を拡げるための二つの目的で造築されたものである。
この石垣の造られている地域は、しけには高浪の打ち寄せる場所であり、又山が海岸に迫っていて、鰮を取っても、置く場所、締粕を製造する場所、鰮粕を干す場所もないというような地域なので、各網元は、防波堤と場所を拡げることの両方の目的のために造ったのである。
この石垣は、各網元が自分の住宅の前浜や、自分の漁場の海岸に、莫大な費用を投じて造築したのである。石工は一流の者を頼んだので、全国から優秀な石屋が集った。九州の稲吉(いなよし)五郎吉は、戸井の石垣や袋澗を造るために来て、戸井に永住し、その子孫が現在残っている。何人かの石屋の外に、各網元の歩方(ぶかた)、雇(やとい)として働らく「カマイシ」といわれた人々がこのための労働に従ったのである。
袋澗や石垣の石材は、地元にある複輝石安山岩や汐首の輝緑質安山岩を使ったが、袋澗を造る石材は特別吟味をし、海水に強いと言われた根田内(恵山)の石を川崎船で運んだのである。当時の人々はこの石を「ネタナイ石」と呼んでいた。しけ早い(・・・・)この地域で、漁閑期の凪の日を選んでのこの工事は、非常な苦労が伴ったのである。
袋澗や石垣を造って、鰮漁業が安定し、そして大漁年が連続したので、各網元は競って宏壮な住宅を建築した。この時代の住宅は、次第にとりこわされて、その数が減って来ているが、現在でも、下海岸では珍らしい白壁造りやレンガ造りの土蔵のついた、瓦(かわら)ぶきの大きな家屋が若干残っている。これが大漁時代に栄えた網元の家である。
各網元の住宅や土蔵を建てるためにも、一流の大工が戸井に集ったのである。明治時代から大正時代に建てられた網元の家の殆んどは、汐首岬から西は汐首の大工三沢八郎が建て、東は新潟県から戸井の浜中に移住した大工山田五三郎、佐吉父子が棟梁をして建てたのである。
家屋の建築には、各網元は、当時の金で五千円乃至一万円という大金を投じ、材料を吟味し、金に糸目をつけずに建て、それぞれの建て物を自慢したのである。
住宅の次に大金をかけて造ったのが、先祖代々の御霊(みたま)を祀る墓碑であった。生活が安定すれば、住む家を立派にし、老いては墓碑を造るということは、人間の辿る道のようだ。
原木、鎌歌、館町、瀬田来、汐首、釜谷、小安に墓地があるが、何れも津軽海峡を一望に見渡せる海岸段丘の上にある。各部落の墓地を調べて見ると、古いもので立派な墓碑、大きな墓碑は鰮大漁時代に、当時の網元が建てたものである。
汐首の墓地の墓石は、大半「汐首石(おくびいし)」で造られており、瀬田来の墓地も、古い墓碑は殆んど「汐首石」である。瀬田来墓地の墓碑群から離れて、地蔵堂の左わきに荘大な墓碑がある。墓石は「汐首石」で碑面に「昭和十三年六月、〓西崎吉太郎建之」と刻まれている。昭和十三年は大々漁の年で、前年は大漁、前々年の昭和十一年は大々漁と、鰮の豊漁が続いた頃である。〓西崎家の当主の語るところでは「墓を建てるのに、五千円の工費をかけた」とのことである。米一俵の値段が十円もしなかった頃の五千円という金は、莫大な金額である。
各部落の墓地の墓碑銘を調べて見ると、鰮大漁時代の網元の栄華の姿を想像することができる。
村が豊かになり安定すると、氏神を祀る神社や寺院に金をかけることは、日本人の習慣であり伝統である。戸井もその例にもれず、村内の神社や寺院は、殆んど鰮大漁時代に新築或は改築されている。この頃の建築費の分担は、各網元が大半を醵出し、一般の人々は、不足分をその分に応じて寄附するという方式であった。
昔の館鼻、今の館町には、大宣寺、大隆寺、法泉寺という三つの寺院が並んで建っているが、この寺は三つとも戸井の鰮大漁時代に創建され、或は改築されたものである。敷地も建物も、それぞれの檀家の寄附によったものであるが、大宣寺の建築に当っては、敷地は一人の網元、建物は別な一人の網元が寄附したものだという。
鰮のナツボ(終戦後)
鰮大漁時代は、網元だけではなく一般の村民もそれぞれ富裕な生活を続けたのである。大漁時代は汐首、館鼻沖、武井の島附近の激しい潮流に鰮の大群が巻き込まれ、進むもならず、退くこともできず、鰮が沿岸で死んで厚い層をなすことが屢々あった。村人はこれを「ホウライ(○○○○)」と称した。
村民はありとあらゆる舟を出して、何日も何もタモ網ですくい上げた。又しけになると死んだ鰮が、波打際まで打ち寄せられて厚い層をなし、舟を出さないで、拾ったということも度々あったのである。
網元で歩方や雇として働らく者も、漁師でない者も、村の商店も料理屋も鰮景気に湧いたのである。
鰮の大漁で湧いた頃は、海が荒れて漁がないと、村内に二、三軒あった料理屋は大繁昌した。陸上交通の不便な時代であったので、函館や湯ノ川から芸者や酌婦が大挙して船で、戸井に繰り込んで来て、網元の家や料理屋でドンチャン騒ぎの宴会が続いたのである。
宴会の興が高まると、網元のおやじが、「さあ湯ノ川さいくべ」ということになり、船頭や若い衆の外に、湯ノ川、函館から来た芸者、酌婦も引き連れて、船で湯ノ川や函館の料亭に乗り込み、金を湯水のように使って豪遊したものだと古老が語っている。
漁期には、鰮の置場に困り、道路わきにまでも生鰮や締粕を置いた。又鰮の締粕をつくる釜たきが何日も何日も昼夜兼行で行われ、次第に腐っていく生鰮の腐臭が村内に満ちみちたのである。
こうしてつくられた、鰮の締粕を歩方の人々がそれぞれ配分を受けて「網子分(あごわか)れ」をするのであるが、年を越して正月が終ると、雪の少い地域なので、網元も歩方(ぶかた)の人々も、一斉に粕干しを始めるのである。
粕干しというのは、玉粕(締粕をこういった)をカケヤでくだいて、ムシロに広げて干すことをいった。瀬田来では玉粕を先祖伝来の日本刀で切りくだいた家もあるという。干し場の不足な、汐首や瀬田来などでは、段々畠のように山の上にまで干したという。
干し上った鰮粕は、建(たて)ムシロというものにつめて二十五貫俵とし、等級、品質の検査を受けて肥料として本州方面に移出したのであるが、鰮の本場だけあって、網元をはじめ漁師の人々は、その製造に意を用い、全道・全国一の「鰮締粕品評会」に戸井から出品されたものが、幾度も金賞や銀賞を受けている。その頃の網元であった〓宇美家や〓池田家などでは、その賞状を現在でも大事に保存している。
大正年間には、鰮締粕の優良品として、浜中の〓宇美家の紅縄粕(あかなわかす)、横泊の〓池田家の青縄粕が全国にその名を喧伝されたのである。紅縄、青縄というのは、鰮粕建の荷造りに、赤や青に染めた縄を使ったことから出たもので、紅縄、青縄で荷造られたものは、北海道戸井産の鰮粕の優良品とされたのである。紅縄、青縄は品質を表示する一つの商標であったのである。
又〓宇美家の五代第吉は、進歩的な考えの持ち主で、大正十一年にカムチャッカ式という電気ウインチを使った機械力による沖揚げ方法を採用し、これが漸次村内の網元に普及した。昭和二年には、昔から薪で釜たきをしていたものを改め、ボイラーによる釜たきを採用し、これも村内に普及した。
大漁時代に将来の凶漁を考慮して、他町村に広大な水田や畑地を買って農業を経営し、自家の飯米の自給を図ったり、広大な山を買い求めて、毎年杉、トド松、ヒバ、カラマツを植樹した網元も若干あった。
太平洋戦争が終って、不在地主の水田や畑地は全部開放されて、小作人の手に渡ってしまったが、当時植林した樹木は、三十年四十年の歳月を経て巨大な木に育っている。
戸井位、鰮漁によって繁栄した地域は、全国的に見て、その例はないだろう。そして戸井は下海岸の行政、経済、文化の中心地であったのである。一級町村に昇格したのも、他町村より早かった。
戸井の鰮大漁による黄金時代の名残は、袋澗、海岸の石垣、網元の住宅、土蔵、墓碑や神社、寺院の建物等によって偲ぶことができるが、過去の栄華と繁栄は一朝の夢と化したのである。
袋澗(切澗)
汐首沿岸に造られた袋澗(切澗)
「参考」
(1)鰮大漁の新聞記事
大正六年(一九一七)十二月九日朝から、鰮の大群が戸井の沿岸におし寄せ、原木、鎌歌の沖合で死に、厚い層をなし、労せずして大漁をした。当時の新聞は次のように報道している。
大正六年十二月十日 北海道タイムス
戸井沿岸の鰮
当沿岸、鰮厚く海上一面死鰮となり、投網不能、すくい鰮をなす。今朝より引続き、今なおすくい上げ、収獲二千石以上。なお沖模様(おきもよう)よく、大漁の見込みなり。(戸井電報)
大正六年十二月十一日 東京満朝報
北海道に鰮の海
三里の沖合から岸まで、鰮で埋まる
北海道亀田郡戸井村字原木・鎌歌・金下の沖合に、九日朝より稀有の鰮の大群来り、沖合三里より浜辺にかけて鰮をもって埋まり、鰮はことごとく死して一大塊と化し、網に入るることすら能わず、目下漁民総出にて、すくい上げおるも、今後全部の陸揚げに、幾日を要するか見込み立たず。
空地という空地へ、十日までは皆陸揚げの鰮が山をなしおるも、尚百分の一にも当らず、村民狂喜しおれり、(函館電話)
大正六年十二月一日、北海タイムスの町村便りに、次のような記事がある。
「戸井村金沢勇次郎は本日より回漕業開始せり。函館戸井間道路は未だ修理せざるため、荷馬車賃騰貴、米一升五十銭を唱うるに至れりと。
当地にては、目下生鰮一篭(かご)一円二、三十銭にて、二、三日不漁なるも遠からず大漁あらんと」
十二月一日の北海タイムスに、荷馬車賃が高くなって米一升が五十銭にもなり、鰮も不漁で遠からず大漁があるだろうと期待していた時に、八日目に北海タイムスや東京満朝報の報告したような大鰮があったのである。「村民狂喜しおれり」という情景が想像される。
(4)麻苧(まちよ)網から綿糸網までの過渡期における調査依頼文
拝啓、益々御多祥奉賀候。陳者本道水産業の発達と共に、漁具の改良を促し数年前より綿糸漁網の使用益々増加し、昨年より本年に至っては実に驚くべき長足の進歩を為し、従来使用せる麻苧網を圧倒し、本道漁網の一大革新とも申す程に相成候。
然るに此の綿糸網製造者及販売者に於ても、開始以来日尚浅くして製造上未熟の点少なからず、且つ一利一害は世の通弊にして綿糸網の需要多きを奇貨とし原料綿糸の精粗を撰ばず、只価格の低廉を名として粗製品を供給する者これ有り、かくの如き漁網を使用せらるる時は、却って従来の麻苧網に劣り、遂に綿糸漁網の声価を失墜し、其発達を阻め候は本道水産上慨嘆に堪へざる処として、綿糸網業者の最も遺憾とする処に御座候。就ては斯業の為め、益々品質を精良ならしめ、適当の漁網を製造し、使用者に遺憾なからしむるよう充分の改良致し度希望に御座候間、目下鰊漁期中漁網使用時節を好機として、別紙記載の事項調査致し度候条、御繁忙中恐縮の至りに奉存候得共、漁網使用の初期より終期まで、徐々に御調査被下来る十二月三十日まで取纏め御報告を煩はし候はば、幸甚の至りに奉存候。先は右御依頼まで申上度候。
早々敬具
追而調査に関し費用を要し候はば早速御請求被下度候。
明治三十年四月十日
函館区大町十八番地
綿糸漁網商 高 倉 儀兵衛
戸井漁業組合 御中
(館町河村武男提供)
(2)秋鰮鰤漁の入稼(いりかせ)ぎ漁夫の寄留届
戸井で鰮の大漁が続いた頃は、近郷近在(きんごうきんざい)からはもちろん、北海道、東北地方から毎年のように入稼ぎ漁夫が集り、戸井の人口が一挙にふくれ上った。
最近戸井では、年々出稼ぎが増加し、鰮の大漁時代を知らない若い人々には「入稼ぎ」ということばは耳新しいことばであろう。
各網元は歩方(ぶかた)、雇(やとい)の漁夫や雑夫を使ったが、七十人も百人も漁夫、雑夫を使う大きな網元では、村内或は近郷近在の人を使うだけでは間に合わず、道内や東北地方からも雇(やとい)を入れたのである。
道内では上磯、谷好、茂辺地、富川、木古内、知内、福島、松前などの渡島管内の村々や檜山管内、後志管内などから集った。本州方面では秋田県、青森県、新潟県、福井県、石川県などからもたくさんの漁夫が、各網元のところへ来た。国名でいうと越前、越中、越後、加賀、能登、出羽、津軽、南部等であるが、中でも最も多かったのは、対岸の南部、津軽の人々であった。
渡島管内の近い所からは、一家揃って来たものもあり、親子、兄弟、夫婦で来たものもあった。これらの人々の中には、何年も来ている間に、男は戸井に養子になったり、若い娘で戸井に嫁になったりする者もあり、逆に戸井から嫁をもらうなどということが多かった。
入稼ぎ人については、網元がきびしく寄留届を出させたので、各網元単位に連名で寄留届を出した。寄留届には、本籍地、氏名、年令を書いた。明治三十年(一八九七)の寄留届の例を挙げると次のようなものがある。
渡島管内の近いところから来た例
網元、山崎石太郎家に来た者
渡島管内の近いところから来た例
山崎石太郎方に来た十五人は、上磯郡の谷好、富川、茂辺地の三村から来た人々であるが、現在この三村は上磯町になっている。十五人のうち小西姓のものが九人で、そのうち五人は同一家族である。続柄が書かれてないので関係は不明だが、甚四郎(六八才)が父で甚三郎(三〇才)次郎(二四才)甚七郎(二一才)は甚四郎の子、ヒナ(一七才)はは甚四郎の娘か、次郎の妻であろう。外の四人の小西姓の者は、甚四郎の分家の者と思われる。寄留届を小西甚四郎が代表で届けているところから、茂辺地村の五人、富川村の一人も甚四郎が募集して連れて来たものと思われる。
当時最も年の若い磯谷勝太郎(当時一五才)でさえ、現在まで生きていれば今年九十一才、当時十七才であった小西ヒナ、竹内勇太郎も今年九十三才になっているので、この時の十五人の人々は既に死去しているだろう。九人も揃って同じ網元のところへ出稼ぎに来た小西一族の関係ですら、当時の人々からは聞けないのである。僅か七十六年昔のことでも当時の書き役のところに、寄留届としてこんな記録が残っている程度というのが、昔の農漁村の実態であったのである。明治三十年頃でも、手紙や届書、願書などは大てい字の書ける人や、書き役に頼んだのである。
本州方面から漁夫や雑夫を雇った例
網元、半田初三郎家に来た者(明治三十年)
本州方面から漁夫や雑夫を雇った例(1)
網元、西崎留吉家に来た者(明治三十年)
本州方面から漁夫や雑夫を雇った例(2)
「忍路(おしょろ)、高島(たかしま)及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)、磯谷(いそや)まで」と追分節に歌われた後志(しりべし)地方は、江差、松前の鰊がとれなくなってからの鰊漁場で、江差、松前、下海岸、蔭海岸の漁民がたくさん出稼ぎに行った。道内だけでなく、青森県、秋田県あたりからも出稼ぎに行ったことは下海岸の鰮大漁の時と同じであった。
鰮は鰊のように「身欠き鰊」や「カズノコ」を製造するという作業はなかったが、締粕を製造すること、漁網、漁具、漁船は大体同じであり、その漁法も同じであった。したがって「船こぎのはやし声」「網起し音頭」「沖揚げ音頭」などの、漁撈の歌も同じであった。
そして鰊と鰮の漁期はカチ合わず、秋鰮は十一月から十二月二十日頃までに終り、鰊漁は、三、四月頃が盛漁期なので、下海岸の鰮の漁期には、鰊場の古宇郡、歌棄郡、磯谷郡等の後志地方から出稼ぎに来、鰊時期には下海岸から後志地方に出稼ぎに行くということが、鰮、鰊の大漁の続いた時代に長く続いたのである。
戸井の鰮漁の経験のある者は、鰊場の仕事にすぐ間に合い、鰊漁をしている後志地方の人々は、戸井の鰮漁にすぐ役立ったのである。
戸井の網元や船頭の中には、津軽・南部からの移住者やその子孫がいたので、国元から漁夫や雑夫をたくさん頼んだ。津軽・南部の漁村から来る漁師でも、鰮漁の経験のある者もない者もいろいろあった。然し漁師であれば、何年も来ている間に鰮漁に馴れた。
然し同じ津軽や南部から来る者でも、水田地帯から農閑期に出稼ぎに来る者は、網の扱いも知らず、櫂(かい)をこぐ術(すべ)も知らず、波を恐れたり、船酔いをして全然使いものにならなかった。然し毎年来ているうちに一人前の鰮とりの漁師になる者もあったが、中には海や船に馴れず、オカ廻りの雑用をしたり、カマタキ専門という者もあった。
現代の漁師は、出稼ぎに行くにも背広姿で行くが、昔鰊や鰮の漁場へ出稼ぎに行く漁師たちは、ドンザや赤ケットを着て、集団で行動をし、言語も動作も粗野粗雑であったので、都会の人々は「ヤン衆」といってケイベツしたものである。
宮川神社の棟札を見ると
○文政六年(一八二三)八月三日の棟札に「年々鰤(ぶり)大漁」とあり
○天保十二年(一八四一)九月四日の棟札に「鰮、鰤(ぶり)大漁」とあり
○元治元年(一八六四)七月二十八日のものに「年々鰤(ぶり)、鰮大漁」とあり
○慶応元年(一八六五)八月のものに「鰮大漁」とある。
この棟札でもわかるように、文政、天保の昔から、鰮と鰤(ぶり)の大漁が続いた。鰮漁の入稼ぎ者もたくさん来たが鰤漁の入稼ぎ者も、道内や本州方面から来たのである。
鰮漁であろうと、鰤漁であろうと雇った人を雇(やと)い主が届けなければならなかった。その例として斉藤文吉が届けた「鰤釣り人名届」を書いて見たい。
鰤 釣 人 名 届
千 賀 浅次郎
妻 た だ
長男 源太郎
次男 寅 市
右四名ハ当村に本籍アリ、本年二月ヨリ出稼ギニ他行シ、本日帰村セリ。
後志国岩内郡御鉾内町百番地 三 井 林太郎
安政四年正月二十四日生
加 藤 銀 作
慶応三年十月二十四日生
新潟県西蒲原郡横戸村大字遠土八番地 星 野 芳 蔵
明治九年六月十五日生
〃中城郡八千代村大字西角保二十番地 平 野 清五郎
明治元年六月十五日生
右及御届候也
明治三十三年十月二十七日
戸井村字館鼻七番地 斉藤文吉
この届書に、千賀親子四人が「本年二月より出稼ぎに他行」と書いているのは、親子揃って後志の鰮場に出稼ぎに行ったものと思われる。
新潟県から二人雇っているが、戸井の魚釣りの漁具、漁法は昔から、越前、越中、越後、加賀、能登地方の漁師から習ったり、経験交流によって改良したものである。こういう釣り魚を歴史を証明する資料の一つが、この「鰤釣人名届」である。
(3)鰮油精製についての函館県通達文
勧報第一号
石炭油(石油ノコト)ノ外国ヨリ我国へ売込ミアリシヨリ都鄙(トヒ)ノ灯火一変シ其ノ余波我国ノ物産ニ及ボシ魚油ノ販路俄ニ杜絶シ終ニ貴重ノ油テンテ空シク海中ニ投ゲ棄テ、テントシテ顧ミザルニ至レリ。
而シテ米国ニテハ魚油ヲ用ユル額僅少ナラズ。尋常搾出ノ油ヲ善ク精製シ工業用ニ灯火ニ消費セリ。本邦ヨリモ往々米国ニ輸出シ其ノ利ヲ得ルアリ。本県ニ於テモ二三ノ商人之ニ従事スルモノアリテ市場ニ出スヲ見ル。然ルニ近年販売セシ分ハ汚物塵芥ノ混同シ、ノミナラズ或ハ水分ノ脱離充分ナラザルヲ以テ宜シキ声価ヲ得ザルノミナラズ梢厭フベキ風聞アルニ至レリ。
今日ニシテ憤然之ガ改良ヲ謀テザレバ再ビ販売ノ途ヲ杜絶シ海面ニ貴重ナル魚油ヲ放棄スルノ惨状ヲ見ルニ至ルベシ。
必竟本県下ニテ産出スル魚油ノ粗悪ナルハ圧搾器ノ構造充分ナラザル為メ好キ魚油ヲ得ザルモノナルニ由リ、然ルベキ器械ヲ発明スルカ又ハ他邦ニ於テ用ユル完全ナル器械ヲ撰ミ出シテ採用スル両途ニ過ギザルモ是亦一朝一夕ニ能スベキ非ザレバ先以テ当分ハ搾油ノトキ注意シ可成的汚物及ビ水分ノ混ラビルヲ緊要ノ事トス。依テ其方法ヲ示ス左ノ如シ。
第一 魚ノ煮方ニ注意シ煮工前ノモノハ搾筒ニ入ルベカラズ。而テ魚を煮ル水ハ其度毎ニ取換ルハ誠ニ望ム処ナレドモ薪又ハ傭人ノ手間都合モアレバ先ゾ三度マデハ同ジ水ニテモヨキモノトス。三度以上ハ必ズ取換ルモノナリ。
第二 魚ハ手ノ廻ルダケ新鮮ナルモノヲ煮ルヨウニスベシト雖モ漁獲ノ景況ト納屋ノ都合モアレバ鰊ノ如キハ新鮮ナルモノノミヲ搾収スルハ実際上難キ場合モアルベキナレド、勉テ新鮮ナル魚ヲ煮ルコトヲ実行スベシ。魚ノ腐敗シタルヲ用ユレバ粕モ油モ大イニ品位ヲ落スノミナラズ、油ヲ精製スルノ時余程ノ損害アルモノナレバ漁業者ノ最モ注意スベキコトナリ。
第三 油溜ヨリ油ヲ酌取ル時油ト水トヲナルベク分ケ酌取置キ漁業ノ閑ヲ見計リ大釜ニ遷シ海水ヲ適宜ニ入レ沸騰セシ後、別ノ樽ニ入レ棒ヲ以テ凡ソ十分時間掻廻シ其儘十二時間位放冷シ置クベシ。
第四 右ノ如ク放冷シ置クトキハ油ト水ト自然分離シ左ノ景状ヲナセリ。
下ノ図ノ如ク分離シタルモノヲ鉄葉製ノ柄杓又ハ海扇貝ヲ以テ甲図ノ袋ニ盛リ濾過スベシ。而シテ樽ヨリ油ヲ酌取ルトキ汚物ノ混ラヌヨウニシ、又汚物ノ混リタル油ハ別ノ樽ニ遷シ水ハ投ゲ棄テベシ。右ノ次第ニ付油分ト汚物ノ層ノ際ヲ酌取ルトキ可成的汚物ノ混ラザルヨウ充分ニ注意スベキナリ。
下図ノ如キ袋ヲ次ニ示ス乙図ノ如ク棚ヲ造リ適宜ニ排列シ濾過スノ便利ヲ与フベシ
第五 前ノ如ク濾過シタル油ハ第七ノ手続キヲナシ販売スベシ。
第六 濾袋ニ残リタル凝結物ハ多量ノ蝋分ヲ含有スルモノナレバ更ニ第三ノ手続ヲ為シ濾過セシ後徐々ニ圧搾シテ油ト水分ヲ去リ固結セシママ然ルベキ入レ物ニ入レ販売スベシ。
第七 第四ノ手続キヲ為シタルモノハ石炭油ノ空罐又ハ荏油ノ空樽ニ入レ販売スベシト雖モ入物ハ十分親切ニ掃除スベシ。石炭油ノ空罐ヲ大釜ニ沸騰シタル灰水ニ浸シ置キ石炭油ノ全ク尽ルヲ待ッテ取リ出シ、自然ニ水気ヲ蒸発シ後右ノ油ヲ油入スベシ。
第八 第四ノ手続ヲナシタル汚物ハ塵芥及魚肉又ハ魚骨ナレバ圧搾シ後乾燥シテ田圃ノ肥料ニ為シテ最モ有益ノモノナリ。
右ハ魚油ヲ販売スルニ当リ注意スベキ件々ヲ記ス。又之ヲ精製スル順序ハ尋常一般ノ人ニテハ能クスベキニ非サレバ此ニ記載セズ依テ本年ヨリハ魚油ヲ販売スルモノハ必ズ以上条項ニ注意スベキモノナリ。
明治十八年一月二十八日
函 館 県 勧 業 課
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