七・八世紀代の津軽地方

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八世紀代の奈良時代に併行する時期には、尾上町李平下安原(すもだいしもやすはら)遺跡、黒石市浅瀬石(あせいし)遺跡が典型的な例として知られるが、青森県内で開発に伴う大規模調査が行われる以前には、市浦村十三中島遺跡の土師器甕球胴甕・坏・高坏・小型手捏(てづく)ね土器がまとまって出土しており、これらは、七・八世紀代の標識土器として知られていた。耕作中に発見された資料であるが、弘前市中野遺跡では土師器甕一二点、坏六点、片口土器一点の総数一九点が一括で出土している(図7)。この遺跡に近接して、先に触れた蕨手刀を出土した門外遺跡がある。津軽地方におけるこの時期の集落の展開は散在的ではあるが、東の太平洋側と同様、集落の形成と呼応して群集墳が成立していったのであろう。ただ、これらの年代観については、東北地方南部あるいは関東以西の土器との対比から七世紀前半~中葉の土器を六世紀中葉に、七世紀後半~八世紀前半の土器を六世紀後半~七世紀前半に遡(さかのぼ)らせようとする見解もある。

図7 中野遺跡出土の土師器

 土器の時代を決める物差しである編年は、あくまで新旧の相対関係を決定するものであって絶対年代を指し示すものではない。したがって、遺構から銭貨あるいは官衙(かんが)・寺院関連遺物など年代性をもった遺物が伴出しないかぎり、絶対年代の根拠は乏しい。主に東北地方南部の編年を基準に設定されてきた北部の編年の年代観は、関東以西との相対関係で裏付けられてきた南部の年代観との対比関係に大きく左右される不安定性をもっている。『日本書紀斉明天皇五年(六五九)七月三日条の唐皇帝と遣唐使との間に交された蝦夷に関する問答のなかに「五穀無く、深山の樹の下を住としている」(史料二六)と記されたこの時期には、造りつけのカマドを設けた方形の竪穴住居を基本とした定住的集落が営まれ、稲作のほかアワ・キビ・ヒエ・マメ類の雑穀栽培、シソ・アブラナ類の栽培が行われていたことが考古学的調査によって確認されている。