地方色を顕す古代の津軽地方

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文献史上では空白あるいは謎とされている津軽地方の一〇世紀後半から一一世紀は、考古学的には、たとえば木造町石上神社遺跡などのような岩木川水系の平野部の微高地上に稲作を生業とする開拓集落が展開し、農耕社会が安定化してきた様子がうかがわれる。また、日常容器をみてもわかるように、土師器坏が極端に減少し、把手付土器や蒸籠形甑(せいろうがたこしき)が普及するなど津軽地方を中心とする東北地方北部独自の地方色が濃くあらわれてきており、さらに、一一世紀中葉から後半には、内耳鉄鍋や内耳土鍋がみられるようになってくる(図20)。

図20 10世紀後半~11世紀代の土器

 一〇世紀末から一一世紀末は、カマドを有する竪穴住居跡としては最終段階に位置付けられる高館遺跡・古館遺跡・砂沢平遺跡の主体的遺構群が知られており、煮沸具としての土師器甕がほとんどで、須恵器は完全に消滅している。また、高館遺跡第二〇号住居跡カマドからは、輸入白磁破片が出土している。環壕(かんごう)集落が営まれた一一世紀後半代を盛期とする浪岡町高屋敷館遺跡の環壕からは土師器砂底坏・甕(かめ)・壺・把手付土器・内耳土器が出土しており、必ずしも画一的様相を呈しているとはいい切れない。
 一二世紀代の様相は、古代的土器の衰退とともに不明瞭な点が多くなるが、一二世紀前半では高屋敷館遺跡の最も新しい時期の遺物や弘前市荼毘館(だびだて)遺跡の出土遺物が知られている。一二世紀中葉から後半の遺跡の大半は津軽地方に集中し、弘前市境関館遺跡浪岡城内館跡・青森市内真部(うちまっぺ)遺跡・蓬田村大館遺跡・市浦村十三湊遺跡などが知られている。
 一二世紀後半以降、広域流通システムに組み込まれていった津軽地方は、次第に中世的様相を帯びてくることになる。