写真66 常呂川河口遺跡の住居跡(北海道常呂町)
写真67 オホーツク文化の墓(北海道常呂町)
中央政府は津軽海峡を境界として強く意識し、本来、長く海峡を挟む共通文化圏を形成してきた北奥と北海道道南部とを分断して、アイヌの異民族視を強化していくが、それはもとより中央の側の認識であって、現地の認識ではない。現地の管理者たちは、アイヌとだけではなく、このころ活動を活発化させつつあった北方のさまざまな少数民族とも、もっと自由に接触を図り、多様な交易活動に従事しようとしていく。
このころには中央でも蝦夷地産物の需要が以前に増して高まりをみせており、院政政権も自ら積極的に異民族製品である北方産品の入手に介入するようになる。そして郡郷制に編成されたかつての蝦夷の地域の統治の実権を、平泉藤原氏による新政権に委ねたのである。その意味で平泉政権は、中央の国家権力を現地で体現するものでもあった。安倍氏の蝦夷支配と平泉の蝦夷支配は根本的に異なるものなのである。
こうした中央の蝦夷認識を受けて、やがて、蝦夷系譜を強く意識した津軽安藤氏が台頭してくる。安藤氏が担った「蝦夷沙汰(えぞのさた)」とは、平泉政権とアイヌとのかかわりに始まるこうした歴史の流れのなかに生まれてきたものであった。
なお、エゾという呼称は必ずしもアイヌだけを指すものではなかった。アイヌと日常的に接触していた海峡を挟む世界である北奥の地の人々に対しても、エゾと呼びかけることがあったようである。もっともこれは北奥の地で起こり、それが中央にも広まったということであろう。