エゾ=アイヌ

164 ~ 165 / 553ページ
したがって、このエゾという用語の指し示す実体は、それまでのエミシ・エビスとは異なり、徐々に独自の文化を形成しつつある北の異文化人、すなわちアイヌを指していると考えられよう。のちに詳しく触れるが、後三条天皇東夷征討による、本州北端に至るまでの平定によって郡郷制の施行が押し進められると、北の境界線が確定することになるが、それに伴って、当時の日本国の境界のさらに北に住む人々を、中央政府が異民族として強く意識するようになった。同時に北海道の側でも、アイヌが民族として独自の世界を形成しつつあった。それまでの北海道は、本州の土師器の影響を強く受けた擦文土器(蝦夷土師とも呼ばれる)を一つの指標とする擦文文化の時代であったが(写真66)、それが終末を迎え、新たにアイヌ文化が成立していくことになる(写真67)。

写真66 常呂川河口遺跡の住居跡(北海道常呂町)


写真67 オホーツク文化の墓(北海道常呂町)

 中央政府津軽海峡を境界として強く意識し、本来、長く海峡を挟む共通文化圏を形成してきた北奥と北海道道南部とを分断して、アイヌの異民族視を強化していくが、それはもとより中央の側の認識であって、現地の認識ではない。現地の管理者たちは、アイヌとだけではなく、このころ活動を活発化させつつあった北方のさまざまな少数民族とも、もっと自由に接触を図り、多様な交易活動に従事しようとしていく。
 このころには中央でも蝦夷地産物の需要が以前に増して高まりをみせており、院政政権も自ら積極的に異民族製品である北方産品の入手に介入するようになる。そして郡郷制に編成されたかつての蝦夷の地域の統治の実権を、平泉藤原氏による新政権に委ねたのである。その意味で平泉政権は、中央の国家権力を現地で体現するものでもあった。安倍氏の蝦夷支配と平泉の蝦夷支配は根本的に異なるものなのである。
 こうした中央の蝦夷認識を受けて、やがて、蝦夷系譜を強く意識した津軽安藤氏が台頭してくる。安藤氏が担った「蝦夷沙汰(えぞのさた)」とは、平泉政権アイヌとのかかわりに始まるこうした歴史の流れのなかに生まれてきたものであった。
 なお、エゾという呼称は必ずしもアイヌだけを指すものではなかった。アイヌと日常的に接触していた海峡を挟む世界である北奥の地の人々に対しても、エゾと呼びかけることがあったようである。もっともこれは北奥の地で起こり、それが中央にも広まったということであろう。