延久蝦夷合戦と津軽

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この乳井から大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心をなしていたと推測されており、福王寺以外にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二)をもつ大鰐町蔵館の高伯寺(現在の大円寺、旧寺地の神岡山には今もなお礎石や基壇が残る・写真75)や、建長六年(一二五四)の北条時頼再興伝承をもつ碇ヶ関村古懸(こがけ)の国上寺など、中世初期の創建伝承をもつ有力な寺院がいくつも存在している。そしてこの福王寺は、そのなかでも最古の伝承をもつ寺院であった。その寺院が前記のごとく延久合戦後の僧侶の移住、再興(事実上の創建)、住民を指揮しての開発といった伝説をもち、さらに平泉藤原氏時代の正式な開山まで暗示させる山号を有しているのである。延久合戦をきっかけに開始された北奥地域の政治的・社会的変容をここから読み取ることはそう無理なことではないように思われる。

写真75 高伯寺跡(大鰐町)

 とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北の北奥の地に到来したのは、「平和」ではなく、「戦争と緊張」の激化であった。南の勢力の北上は決定的になり、一方で現地の政治勢力のあいだでは、相互の合従連衡、あるいは南の「日本国」の勢力である陸奥国司や鎮守府将軍清原氏とのつながりを求める動きがいっせいに始まっていく。南の「奥六郡」から津軽平野へ通じる「回廊」地帯であったともいえる鹿角盆地や南津軽平川河谷地帯には、深く厳重な空堀を構えた「環壕集落」や、高く険しい丘陵上に造られた「高地性集落」が数多く分布している。しかもそうした高地性集落の一つである大鰐町砂沢平遺跡では、一一世紀の後半、その集落の最終時期に切岸が整備され柵列が設けられるなど、一段と「防御」的性格が強化されていることも指摘されている。大規模な環壕をもつことで有名な浪岡町の高屋敷館遺跡でも、集落を囲む環壕の木橋の年輪年代の測定によって、それが一一〇六年(嘉承元年)以降の時期に新たに架け替えられていることが判明している。
 これらのことから明らかなように、延久蝦夷合戦以後も一二世紀初めまでの北奥地域は、防御性集落の存在が物語る一〇世紀半ば以来の「戦争と緊張の時代」が、その最高潮を迎えたときであったともいえよう。
 延久蝦夷合戦から一三年後の永保三年(一〇八三)、その合戦の戦功で鎮守府将軍に任命された清原真衡と、清原清衡・家衡など一族の主導権争いが勃発し、それに北方世界に野心をもつ「武士の棟梁」源義家が絡んで、後三年合戦へと発展してゆくが、それはこうした状況下で起こったものであった。