秀吉の東国への停戦令

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天正十四年(一五八六)五月二十五日、秀吉は白河(しらかわ)氏(本拠は陸奥白河であるが、佐竹氏など北関東の大名と関係が深かった)・下野塩谷(しもつけしおのや)氏・常陸佐竹(ひたちさたけ)氏など、北関東の諸大名に対して朱印状を発給した。その内容は、①下野佐野(さの)氏の家督北条氏忠(うじただ)が継承することの承認、②徳川家康の赦免(当初、秀吉の東国出馬は、家康成敗を念頭に置いたものであったが、のち秀吉の妹旭姫の家康への輿(こし)入れにより回避される)、③関東に使者を派し、領土を確定し、それが確定するまでは紛争を停止する、④「京都御使節」として山上道牛(やまがみどうぎゅう)を派する、というものであった。
 さらに、秀吉は、奥羽(直接には南奥羽を対象とした)の大名間の紛争にも介入するようになる。四月十九日付の佐竹義重(よししげ)宛て秀吉直書(じきしょ)によると(『新潟県史』資料編三)、会津の蘆名(あしな)氏と伊達氏との間の領土紛争を停止するために、佐竹氏に奔走を求めている。さらに、これにあわせて、家康成敗後の大名間の領土確定方針を佐竹氏に伝えている。
 もちろん、これは蘆名・伊達という紛争当事者に直接伝えたものではないが、家康成敗が回避されるに至り、いよいよ直接介入に乗り出すようになる。現在、このときに奥羽の諸大名に発給された秀吉の「御書」は確認されてはいないが、北関東の諸大名に朱印状を発給した五月二十五日にそれほど遠くはない時期に発給されたものとみられる。そして、その内容は、①伊達・蘆名・田村に対する和睦命令、②諸大名間の紛争停止、③豊臣方への返信要請、であったと思われる。そして、北関東での山上道牛のような役割は、小笠原貞慶に任されていたが、五月二十日に上杉景勝上洛した後は、景勝に関東から奥羽にかけての申し次ぎ・取り次ぎを果たさせようとしたようである(以上の記述は、粟野俊之「東国惣無事」令の基礎過程―関連史料の再検討を中心として―」永原慶二編『大名領国を歩く』一九九三年 吉川弘文館刊による)。