図35.秋田氏の攻撃による浅利領の被害地図
この間、文禄三年末に上洛し、翌文禄四年六月ごろに帰国した秋田実季は、弟忠次郎英季(ふさすえ)と南部信直の娘との祝言について八月と決定していた。ところがこの八月と決定した秋田氏と南部氏との祝言は、前年から起こっていた浅利騒動によって延期を重ね、翌文禄五年になってようやく執り行われている。この文禄四年八月の事情について『浅利軍記』には「文禄四年乙未八月二十八日、双方より軍勢を出して合戦を挑む。同九月七日、実季数百騎の軍兵を引率して米代川の辺に出張せり」と記しており、秋田氏はこの時期浅利氏との戦闘で南部氏との祝言どころではなかったのである。文禄四年には、このほか十月十三日・十一月十五日と合計四度にわたって戦闘が行われ浅利方有利の戦況であったが、すでに述べたように、この文禄四年の戦いで比内の浅利領は六ヵ村が放火・「なてきり」に遭い、甚大な被害を被っていた。
南部信直は、この文禄四年の状況を、八月八日付書状で「比内・檜山、人ゆ(行)きゝなく候」と、八月初めに比内と檜山の間での交流がなくなっていたと報じている。また八月二十二日付書状では、比内浅利氏より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より浅利氏を支援することになり、そのため浅利氏は津軽為信を後ろ盾にしている。一方、浅利氏重臣片山氏・八木橋氏の実季方への寝返りや、浅利方から秋田領への侵入による稲の刈り取りが行われたと報じている。さらに八月二十四日付書状では「秋田之進退あやうき」という噂が信直のもとに届き、信直は祝言の延期を考え始めている。
図36.津軽氏の浅利氏擁護を示す南部信直書状案
この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは、浅利勝頼の謀殺後、頼平が身を寄せていた津軽為信であった。為信は、天正十八年に南部信直から独立を果たす際に秋田実季と講和し、実季が比内から南部勢を排除する際に支援していたが、この浅利騒動ではまさに「表裏之仁(ひょうりのじん)」にふさわしく、実季を裏切り浅利方を支援するという立場に立ったのである。すでに信直は秋田氏と名護屋参陣中に盟約を交わし、祝言の約束を取り交わしており、この為信の対応は、南部氏をも敵に回す行為であった。