さて、この検地帳をみてみると、検地竿は一間六尺五寸、一反=三〇〇歩、そして、一筆ごとに所在地・田畑の別・面積と名請人(耕地の所有者として検地帳にその名を記載された百姓)が記されている。田方は、上中下の三等のほかに、「苗代(なわしろ)」「薭田(ひえだ)」の別がある(ただし、黒石村には田の等級は示されていない)。畑方は、一筆ごとに、大豆・大根・小豆などのように、作付品種が示されている。
そして、田方では、上中下三等の区別があるが、「高」の一反当たりの石盛(耕地の段当たり基準生産高)は、一律に一石三斗になっており(上中下三等の平均石盛)、一方、畑方と屋敷地は「物成(ものなり)」で示され、畑方は栽培作物にかかわらず一律に三斗、屋敷地は一石三斗となっている。
そして、これら「高」「物成」は、「黒石巳年郷帳」を参考にすると、いずれも生産高を意味している。生産高にもかかわらず、畑方と屋敷地が「物成」とされたのは、これらがいずれも米納制であって、現物の作物の収取ではないことを意識したものであろう。
次に、明暦の検地帳の収穫量表示は、実際の生産力を正確に反映したものであったかということが問題となるが、この検地帳では、田・畑・屋敷地の面積に一律の石盛を乗じることによって石高を算出している。したがって、明暦の検地帳は、その表示方式は石高によって土地の生産高を示しているものの、実際の生産力とは一致していないといえよう。
さきに触れたように、明暦検地は、津軽信英への分知と、分家家臣団を創出するための知行割であって、その知行高と軍役の負担高を確定することが目的であった。それを一律の石盛を乗じることによって機械的に算出した。しかも、田方の石盛一石三斗は、貞享元年(一六八四)からの領内総検地における給地割の際の基準値として理解されるものであった。したがって、前期の津軽領における給人知行地の設定は、その土地の実際の生産力を把握した上で行われたのではなかったのである。