前期検地は、大光寺遣のような古い村落でも実施されたように、開発地のみであったわけではない。後述するように、前期農政では、農民は役負担者である本百姓と、役負担の義務を持たない請作の小百姓(水呑)からなっていた。本百姓はそれぞれ「軒」ごとに支配され、請作は、蔵入地では給人上地が対象となり、一年作奉行が吟味し最終決定することで割り付けられた。
前項でみたように、津軽領の場合、人役制という相対的な田積表示方式を採用していたこともあり、村高を社会生産力の集積として把握することが困難で、年貢の村請制を取りえなかった。したがって、前期の農政と農民支配の在り方は、村落を媒介としながらも、耕地と耕作者を直接に把握してゆくという方法で進められることになった。一年ごとに耕地と耕作者を確定する請作制は、村落を媒介としないという藩による土地・農民支配であることから、耕地と耕作者を直接に確定することになったのである。そして、寛文期以降、とくに延宝期から天和期にかけて検地が継続的に実施されたのは、新開地の増大という面のほかに、「御百姓」の階層分化に伴い、下層「御百姓」が、「不作」状況のなかで経営を解体させ、水呑へと転落したことにより、請作地を増大させたという面もあった(浪川健治「津軽藩前期農政の解体」『日本歴史』四三〇)。