「津軽一統志」以降の修史事業

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「一統志」編纂の後に、津軽弘前藩では、藩士木立守貞の編纂による「津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき)」(以下「徧覧日記」と略記)、藩士工藤行一が編纂した、文政二年(一八一九)の自序をもつ「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」(以下「秘苑」と略記)が編纂された。
 いずれも本編は為信の事績から始め、「徧覧日記」では信まで、「秘苑」は文政二年に稿が一応なった後も増加補綴がなされ、順承(ゆきつぐ)の代に至るまで及んでいる。これらの自序や凡例には旧記・雑記を博捜して編纂したとあり、「一統志」のように確な編纂方針がそこにみられるわけではない。内容も日々の出来事を淡々と記述するいわば「実録」風のスタイルとなっている。ただ、それを貫いていることで、ある意味では合理的・近代的歴史記述に近づいているともいうことができ、現在でも頻繁に史料として用いられている。

図117.津軽徧覧日記封内事実秘苑

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 ところで、「徧覧日記」に附された「本藩濫觴実記(ほんぱんらんしょうじっき)」(以下「実記」と略記)は、為信以前の津軽家の系譜・古記を集めて編んだものだが、それに掲載された津軽家の系譜は表題を「安倍系図」とし、先祖が藤原秀栄(ひでひさ)であることが記され、さらに遠い先祖をたどれば朝敵長髄彦の兄安日(あび)に行き着き、その後の子孫は朝廷に協力したと記されている。秀栄の後裔は、南部家からの養子が入ったが、しかし母方には血脈が続いていて、近衛尚通津軽に下向した折に大浦盛信の姉が側室となり、後の大浦政信となる男児をもうけ、津軽家近衛家の血脈に変わったという主張がなされる。

図118.本藩濫觴実記中の為信に至る系図

 この多少無理な主張は、藩内にも精神的に動揺をもたらしたと考えられる。下級藩士源茂招は「実記」の編纂にもかかわった人物とみられるが、その著書「津軽旧事異聞録」の中で、系譜を安日から始めたことには異議を挟まなかったものの、心中不安と恐怖を抱いたと書き記している。治に入ってからこの系図を「考訂」した小山内建本(おさないたけもと)は、はなはだ不見識な内容であると断じている。結局、この「実記」編纂以後、安日を始祖とする津軽家系図は公的なものとしてみることができなくなってしまう。
 津軽家にとっては、先祖が蝦夷の血を引く朝敵であるということなど承認したくない由緒であった。そこで貴種近衛家との接合を図ることで蝦夷に通じる血脈を払拭しようとした。しかし、津軽家奥州藤原氏に連なることを主張すれば、奥州藤原氏安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった。無論幕府との間に摩擦を避けようとする意識もあったろうが、「北狄の押へ」と自らの立場を位置づけた津軽家にとって、蝦夷につながる系譜を認めることは自己の否定につながり、ひいては家中の動揺を招きかねない問題であったからである。