民次郎一揆やそれに先立つ強訴の原因については、いずれの記録もほぼ同様の事柄をあげている。『記類』文化十年十一月二十五日条には、蝦夷地警備に伴う「公儀方人馬賃銭、松前郷夫出銭」で農村は疲弊し、さらに「開発方」への動員や「地面調方」と「鍬伸地広改(くわのびちひろあらため)」(開発後も年貢未納となっている土地の調査)による増徴によって、百姓負担が三〇年以前の三倍になっていたことが記されている。「大平家日記」(同前No.五七)においても、今度の各地の騒動の原因は、単に今年が凶作であったからではなく、昨年は豊作であり、したがって百姓らが食料に窮していたわけではないとして、同様の原因を記している。同日記ではさらに、「開発方」「地面調方」「鍬延」「貞享調」などが百姓の負担増につながっているとし、特に開発については名目ばかりで実がなく、「新規之堤処々に築き、山を穿(うが)ち、用水を引き、堰を掘り、高田を七寸堀・八寸堀と申し掘候得共、行末迄之利用も少く候、右人夫日々十万之人夫も足らす」として、百姓の労役の負担にもかかわらず、何ら見返りのない藩の政策が行われていたことが記されている。前述した民衆負担増の内容がそのまま強訴・一揆の要因となっていたことが知られる。その上で、この年の不作が引き金となったのである。
強訴・一揆の要求は、検見の実施であるが、基本的には年貢上納御免の措置の要求であった。結果として一部認められたようであり、「秘苑」文化十年十月条によれば、四分一厘の引き方であり、四二ヵ村が年貢御免となったという。民次郎一揆のみの成果ではなく、その前段階の諸組の動向かあったからこその措置といえよう。同年閏十一月二十五日の御触には「当作不熟故、過分之御検見引ニ付」(「秘苑」文化十年閏十一月二十五日条)とある。多くの百姓が徒党を組んで要求したことによって「過分」の検見引を藩に実行させえたのである。
さて、このように、村々が連帯して行動を起こしたということは、村々が連帯しうる共通の、しかも切迫した問題がそこにあったからである。それが蝦夷地警備であった。このことは逆に、これらの警備を実質的に支えていたのは一般の民衆であり、その多くの負担と犠牲のもとに、蝦夷地警備と沿岸警備が遂行されていたことを物語っている。ロシアの南下に代表される「外圧(がいあつ)」やそれに伴う蝦夷地直轄化政策は、民衆レベルまで直接に影響を与えていたのである。