在宅制度廃止以前の廃田・新田開発

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飢饉で荒廃した田畑の面積はどの程度だったのだろうか。『平山日記』天四年(一七八四)条によれば、当時の津軽領の田方耕地面積二万七七六五町余のうち一万三八〇五町余、畑方耕地面積一万二四〇〇町余のうち七六一〇町余という数字を挙げている。実に半分強にあたる。
 廃田の復興は飢饉の直後から進められ、天五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、在方七六名、城下五五名の者を任命し、さらに家老津軽多膳・用人喜多村監物以下を御用懸に任命し、廃田復興に当たらせた(『記類』下)。以後、被害が軽かった田畑から復興は順次進み、天七年の段階で、二〇〇〇町歩が復興したという(資料近世2No.一六)。
 次の復興の画期は寛政二年(一七九〇)から始まる藩士在宅制度である。廃田の復興をねらったこの政策のもとで、藩士が「手作り地」を藩から設定され、自ら耕作に当たっている。たとえば、寛政六年(一七九四)で開発が成就した田方はいわゆる新田地方(広須・木造新田金木金木新田・広田・赤田の各組)だけで八〇〇〇人役(一人役=二〇〇歩。五三三町余に相当)に及ぶ。このうち五三五〇人役が在宅した藩士や、他国から帰住した百姓たちによって開発された土地であったという(『平山日記』)。