預け・入牢・護送

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なにか怪しいふしがあって吟味が始まると、入牢(じゅろう)(吟味牢屋に入れる)とまでいかないものは、その居住場所によって村預け町預け(刑罰としての預けとは異なる)となる。しかし、預けとなる容疑の軽重の程度やその期間ははっきりしないが、村預け町預けの期間が長くなると、村や町の重い負担となり、それを軽減するため入牢としたこともあった。その後、取り調べの結果無罪放免となっても、その人物は周から冷たい目でみられたようである。そのため、百姓町人(下級武士をも含む)などで容疑のはっきりしない者や軽い罪の者は、文化二年(一八〇五)十月、弘前城下の馬喰町(ばくろうちょう)にある牢屋の一郭に揚屋(あがりや)が新設されてからはここに収容された。入牢(揚屋入りも含めて)には未決囚の拘禁と刑罰としての二種類があり、両者の区別が判然とせず、一年未満から二〇年以上に及ぶかなりの幅があり、歴代藩主などの法要その他の執行に際して大赦(たいしゃ)(恩赦の一種)が実施されていることが「国日記」に散見する。
 領内の護送については、容疑者は縄をかけられて一両日のうちに牢屋まで護送された。津軽領内から江戸への護送の様子は、護送規定によれば、概略次のようになっている(「国日記」寛政五年十二月二十三日条)。①江戸までの日数は二〇日とする。②護送される者へ排便・排尿させるため駕籠(かご)から外に出す時には、腰縄(こしなわ)をつけ逃げないよう厳重に取り扱うこと。③三度の食事は駕籠の中で取らせ、箸は短い三寸箸を使用させ、酒・煙草などは与えない。④夜の駕籠の見張りには不寝番を付け、付き添いの者は駕籠の近くに寝ること。⑤護送される者が道中で病気になった際には医者に治療を頼み、もし死亡した場合には塩詰めにして江戸へ送ること。

図172.唐丸籠で護送の囚人

 このように厳重な護送であった。幕末までの「国日記」によってみてみると、一六日~二〇日間で江戸へ到着している。逆に江戸から弘前城下への護送日数もほぼ同じである。