この
飢饉の特徴は、天
明三年(一七八三)・四年の二ヵ年に大きな被害が集中した天
明飢饉と異なり、不作が断続的に続いたことが挙げられる。したがって、俗に「
七年飢饉」といわれるが、唯一豊作であった天保五年(一八三四)を挟み前後に分けられる。前半のピークが天保四年、後半のピークが天保七年と九年であった。
津軽領の天保
飢饉の様子を伝える『
永宝日記』では、「天保四年
凶作、同五年豊作、同六年半作、同七年不作、同九年ききん年」と述べている。また、『
天保凶耕雑報』(
青森県立図書館郷土双書一四 一九八〇年刊)では、天保年間の
年貢収納
高を挙げているが、
飢饉前の天保二年の
高一五万六五〇〇石に対し、同四年は二万二三二三石で、わずか七分の一の収量に過ぎなかった。五年は一五万八二五六石で唯一上回るが、七年・九年はいずれも四万石台で、平年の三分の一ほどの収量しかなかった。他の年も一〇万石にまで達していない(表59)。
年 | 西 暦 | 蔵米収入高 |
天保 2 | 1831 | 15万6500石 |
〃 3 | 1832 | 11万9636石 |
〃 4 | 1833 | 2万2323石 |
〃 5 | 1834 | 15万8158石 |
〃 6 | 1835 | 6万5908石 |
〃 7 | 1836 | 4万7877石 |
〃 8 | 1837 | 9万7178石 |
〃 9 | 1838 | 4万7134石 |
〃 10 | 1839 | 9万136石 |
飢饉の前半において、
津軽弘前藩では天
明飢饉の後設けられた郷蔵(ごうぐら)が功を奏し、また
加賀から緊急に米を購入するなどの対応策によって、天
明三年のような悲劇は避けられた。しかし、後半には相次ぐ不作によって藩の対策も息切れがし、ついに
餓死者を出したというのが大まかな特徴である。
飢饉の死者は『記類』下によると天保三年から九年までの七年間で三万五六一六人、他に他地方への逃散(ちょうさん)四万七〇四三人を数えたという。死者の中には病死者も多く含まれるので、必ずしも
餓死者の人数を示すものでないが、いずれも大きな数字である。もっとも、わずか二ヵ年に八万一七〇二人(「
国日記」)ともいわれる
餓死者を出した天
明の
飢饉と比べると死者は少なく、
東北全体の死者数は一〇万人前後と推測される。