天保期の人返し

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飢饉で荒廃した農村を立ち直らせるためには、城下に流入した飢民を農村に帰らせ、荒廃田の開発に当たらせるのが急務であった。天飢饉の際には天五年(一七八五)の四月に弘前城下施行小屋が解散され、収容されている飢民約三〇〇人が在所に帰されたが、一方で在方から出てきて弘前に住み着いた者も多く、寛政四年(一七九二)の段階でも男女一〇〇〇人に達している(『平山日記』)。藩では、彼らに廃田開発をさせるべく、屋敷や手当米の支給や一ヵ年無年貢などの特例処置を設け、在所に帰らせようとした。しかし、弘前に住み慣れた者たちはいろいろと理由を付けて「在住居(ざいすまい)」を嫌がったが、翌年までに貧富に限らず残らず在所に帰させたという。
 天保の飢饉の際には、特に天保六年(一八三五)から始まる飢饉の後半で再び弘前に飢民があふれた。「国日記」天保八年九月七日条(資料近世2No.一三七)によると、弘前城下には施行小屋が三ヵ所あり、それぞれに「袖乞体之者」が収容されていた。同年に至り、九月二十日までに壮年の者はそれぞれ在所に帰らせて手仕事等をさせ、「老幼之者共」は田畑の刈り取りの時期に合わせ残らず帰らせて在方で養育させるよう、郡奉行から指示がなされている。その後、九月二十九日にはすべて帰村したという報告があり、小屋も取り壊されている。しかし、冬が来てもまだ袖乞(そでごい)の者は城下に多くいたようで、十二月二十七日条(同前No.一三八)によると、再び「盛壮之者」は村の有力者に引き取らせて「日雇藁細工(ひやといわらざいく)」などの農閑余業(のうかんよぎょう)に従事させ、老幼の者はそれぞれ身寄りの者に養わせようとしている。特に袖乞の生活に馴れてしまった者は、見つけしだい在所へ送り返すよう、三奉行から申し付けている。