安永期(一七七二~八一)と比べた場合、文化・文政期(一八〇四~三〇)の津軽弘前藩の財政構造の大きな特徴は、江戸での支出が増大していることである。江戸での米方支出は、安永六年の二万四五〇〇石に比較して四倍近い増加になっているが、逆に上方での支出は半減している。この間に、同藩は上方市場に立脚した経済政策から、江戸市場を中心とした体制に転換した。この転換の要因は寛政改革による幕府の江戸への米穀流入政策と、文化初年以降、とりわけ大坂における廻米量を制限して米価を引き下げようとする幕府の政策の影響がみられる。これを裏付けるように、藩は、文化二年(一八〇五)に大坂廻米三万五五五石余を江戸廻しにして、計六万九九一八石に増石することに定めた。
江戸での常用金も増加する傾向にあった。藩は寛政年間に一万五〇〇〇両を一応の藩邸経費の目安としていた(同前)。たとえば、寛政三年(一七九一)には一万四一七二両が計上されている。しかし、同年は津軽寧親の藩主襲職に伴う経費が他に八二〇〇両もあり、翌寛政四年には幕府から命じられた神田橋普請の費用や、「御国御買下諸色代」などの借金返済額を合わせて、五一三〇両が別に予算措置されている。このような臨時経費はしだいに増加してくる傾向にあった。藩では江戸詰の藩士から俸禄の四分の一の借り上げを実施し、経費の捻出に努める一方で、常用金の一部を借財の返済に充当した。天保期になると江戸常用金は三~四万両に膨れあがり、天保十五年(一八四四)では四万五八七〇両となっているが、そのうち本来の意味での常用分が二万五七三〇両で、残りの二万一三六両は幕府への公金上納を含めた借金の返済分である。