(一)治安機構と共同体規制

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 四代藩主津軽信政(のぶまさ)の治政下、元禄八年(一六九五)の大飢饉を契機として、藩では家臣団の大量召し放ちを実施した。そのため城下では多くの武家屋敷に空家を生じ、城郭内の武家屋敷に住んでいた家臣はそちらへ移転した。城内の政庁化が進むと同時に、従来の町人町武家町に変わり、城下の東側に新たに下級藩士を中心とする武家町ができるなど、町割りの変更と促進によって、近世都市弘前の基本的形態ができあがった。城下町弘前はその後も拡大はみられるが、藩政期を通じて大きく変貌することはなかったのである。
 藩では城下の形成とともに、犯罪の防止、災害の予防、風紀の乱れの粛正など、治安機の整備と共同体規制が強化され、城下の秩序の維持が図られた。