藩士に対しては、すでに寛文二年(一六六二)の「家訓条々」一七ヵ条の第一三条に、農民には延宝九年(一六八一)の「農民法度」第一四条に、町人には延宝九年の「町人法度」の「町人作法之事」の第七条に博奕の禁止が規定されている。
「国日記」によれば、「博奕をした仲間の一人が、仲間の名前を申し出た場合には、申し出た者の罪を許し褒美を与える。また博奕を打った者たちのことを知っていても隠しておき、そのことが後に発覚した場合、その者は博奕の仲間でなくとも仲間と同様に罰する」という博奕禁止令(一例は資料近世2No.二六六)が、幕末まで藩士・寺社・農民・町人宛てにたびたび出されている。
「国日記」天保十四年(一八四三)九月四日条にみえる博奕禁止規定の主な部分を示すと左のようになる。
②カルタ・賽(さい)・双六(すごろく)などの商売をしてはならない。村や町のほか港町でこれらの隠商売をしている者がいると聞いている。博奕の品物を持っている者は、村役人・町役人へ差し出すこと。また、これらの品物を売買したならば、当人はもちろん、五人組・村役人・町役人までも連帯責任で罰する。
③湊や番所では荷物が入ってくる際に、カルタ・賽・双六などを厳重に取り締まること。
以上のことは、いかに博奕があとを絶たずに行われていたかを示すと同時に、藩がその禁止の徹底に躍起となっていたことを示すものであろう。