民衆の動揺

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このように目にみえる形で戦闘が展開されるようになると、弘前の町民の間にも動揺が拡大した。盛岡藩兵が秋田に侵入し、大館に火をつけて陥落させた明治元年(一八六八)八月、その戦闘の様子は市街の高所から遠望できた。弘前と大館の間は約三六キロメートルほどの距離だが、八月二十七日には大円寺(だいえんじ)(現最勝院)五重塔の番僧から久渡寺(くどじ)方面の山陰に火の手がみえるとの報知があった(『弘前藩記事』明治元年八月二十七日条)。そこで藩は五重塔から碇ヶ関(いかりがせき)方面を見渡す調査をしたところ、近隣の寺社の杉類が邪魔でよく見通せなかったため、森町(もりちょう)の火見(ひのみ)番に警備を命じた(同前明治元年九月一日条)。
 すでに藩は五月の段階で市街の松森町・和徳(わとく)町・御蔵町・駒越(こまごし)町・茂森(しげもり)町などの要所に番屋を設置し、同心(どうしん)を配置して怪しげな旅人の通行を監視させていたが(同前明治元年五月十一日条)、それは一層強化された。碇ヶ関大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その混乱に紛れて敵藩の者が入り込む可能性も十分あった。そこで藩は写真61のような高札(こうさつ)を各所に立て、敵兵の領内侵入を警戒し、住民に怪しい者をかくまったり、鉄砲・兵糧などを隠し持っている者をみかけたらすぐに密告せよと命じ、報知した者には褒美を与えるとしている。このような高札が辻々に掲げられることは絶えてないことであり、緊迫した当時の事情をよく物語っている。

図61.御布告高札

 町の往来には武装した藩兵が物々しく毎日のように出発し、その後に町民や農民らが小荷駄(こにだ)隊に編成されて軍事物資を運んでいった。また、その一隊とは反対に戦場から帰ってくる部隊もあった。兵士の中には負傷している者もいたであろうが、藩では大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)と浪岡(なみおか)(現南津軽郡浪岡町)に病院を建設し、医師を詰めさせて負傷者を治療することとした。ところが野戦病院に初めて接した兵士の家族や民衆は、見舞いの手紙や贈答品を送ったり、自ら出向いて見舞いに行ったため、治療の支障となった。藩は目付触で病院や出陣先に私的な使いや手紙・品物を送ることを厳禁し、家中(藩士)はもちろん、在・町に至るまで徹底させるように指令した(同前明治元年九月八日条)。