宮古湾海戦

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津軽海峡を挟んで対峙(たいじ)することとなった政府軍旧幕府軍は探索の者を送り、間者を厳しく取り締まるなど、互いの動向を探りながらの睨(にら)み合いが続き、再び事態が動き始めるのは明治二年三月であった。この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『弘前藩記事』二)。
  長州藩七七六人岡山藩兵五〇〇人
  津藩兵一八〇人久留米藩兵二五〇人
  福山藩兵六二一人徳山藩兵二五五人
  大野藩兵一六六人松前藩五五二人
  弘前藩兵二八八六人黒石藩一六〇人
  合計 六三四六人

 この時点で、旧幕府軍の二倍にのぼる人数が本州側に集結していた。さらに、三月、四月と薩摩・水戸・熊本藩等の兵が続々と送られ、その他軍夫などを合わせると、最終的には総勢一万二〇〇〇人にものぼる人員が、箱館戦争に投入された。
 また、三月五日には、一月からたびたび懇願をしていた軍艦の導入が決定されたことが内諾されており、いよいよ決戦の時が近づきつつあった。
 こうして甲鉄を旗艦とする春日・丁卯・陽春の四隻の軍艦と豊安・戊辰・晨風(しんぷう)・飛龍の輸送船四隻、合計八隻が北海へ進路をとることとなった。甲鉄は、二月三日、政府がアメリカから引き渡しを受けたばかりの最新鋭の装鉄艦だった。同艦はもともとは幕府の発注により建造された艦なのだが、アメリカが局外中立の立場をとっていたので、引き渡し先が決定されないままに前年春より横浜に停泊していた。榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕府軍も入手すべく交渉を試みてはいたが、奥羽平定により明治政府側の勝利が確定したと判断されてことここに至ったのである。
 三月九日に品川沖を出航したこれらの軍艦の情報は、旧幕府軍のもとにも届いていた。明治元年十一月、松前藩攻撃の際に座礁させ、沈没した開陽の損失が大きな痛手となった旧幕府軍は海軍力の回復を図るために、これらの軍艦の奪取を図った。特に甲鉄は開陽を上回る装備と性能を備えていたので、これが相手方にあるということは大きな脅威であった。箱館戦争は海軍力が勝敗を決する大きな要素であった、といっても過言ではないであろう。こうして、旧幕府軍の宮古湾(みやこわん)奇襲作戦が実行されたのである。
 旧幕府軍艦回天・蟠龍・高雄が海軍奉行荒井郁之助の指揮のもと、三月二十一日未明に箱館港を出航した。政府艦隊の宮古湾入港の情報を得ていたのである。二十四日、回天は米国旗を掲げて湾内へ進入し、甲鉄へ接近し、同艦への砲撃、および切り込みを試みる。しかし、回天から甲鉄への乗り移りに手間取った旧幕府軍は、甲鉄に備えられていたガットリング機関砲の威力の前に、次々と倒されていった。ガットリング機関砲は一分間に一八〇発も発砲することができる性能を備えていた。蟠龍は早々に太平洋沖へ退却し、回天も続いたが、高雄は春日丸に追われ、逃げ切れずに田の浦において炎上した。一方政府軍の方も戊辰が砲弾に当たって大きな被害を受けたため、負傷者を乗せて東京へ引き返さざるをえなくなった。結局短時間のうちに実戦は終了したが、旧幕府軍の死傷者はおよそ五〇人、政府軍の死傷者はおよそ三〇人という大きな戦いとなった(『弘前藩記事』二)。
 こうして、宮古湾海戦を経て、三月二十六日から二十七日にかけて七隻からなる政府艦隊が青森へ入港した。同じく箱館へは旧幕府艦隊が回天・蟠龍の二隻となって帰港した。ようやく青森港に入港した応援の官軍艦隊は勝利を予感させる堂々たる威風であった。