帰田法の発令

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明治三年(一八七〇)八月十六日、藩政改革が一段落したころ、藩知事承昭(つぐあきら)は前年の凶作により打撃を受けた木造(きづくり)村・羽野木沢(はのきざわ)村・金木(かなぎ)村・十三(じゅうさん)村など、現北・西津軽郡の新田地域を視察するとの名目で弘前を発し、二十一日には開発が進められていた青森港に至り、そこの仮屋に約二ヵ月滞在した。承昭に従った者は大参事西館融(とおる)・杉山龍江をはじめとして多数にのぼり、藩庁がまるごと移転した感があった。帰田法少参事西館孤清(こせい)が計画を発案し、重臣たちと協議のうえ、実施されることとなった。

図73.帰田法時の水帳
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 同年十月十日、青森から弘前に帰る途上、承昭ら一行は再び木造村に立ち寄り、近在の地主らを招集して、突然帰田法実施の告諭を発した(資料近世2No.五九二)。その内容は承昭の告諭書、大参事少参事および租税掛大属(かかりだいぞく)からの演説書、所持田畑調査書の雛形(ひながた)から成るが、告諭書の中で地主らに懇々(こんこん)と時局の切迫を述べ、理解を求めている一方、演説書では三〇〇年来の武士階級に対する恩情の押しつけと、威圧的な禁則(きんそく)が列挙されている。藩は十月十六日までに土地等級・面積・小作人名・分米(ぶんまい)高(公租高)等の調査を一筆(いっぴつ)ごとに提出せよとし、万一欲情に迷い、にわかに耕地の分地を企てる等の不正が発覚した際は厳罰に処するとしている。
 地主らにしてみれば、帰田法の内容もよく理解できず、再生産の可否にも関わる重大事件であったが、何の異義を唱える暇もなく事態は進んでいった。耕地買い上げというが、藩が提示した金額は田地一反歩につき三両で、三ヵ年賦とされた。当時、一反歩は一〇両から一五両が相場であったことからみても、初発の時点で藩が強権を発動して耕地を確保しようとしていたことは明確である。そして、告諭段階で藩では帰田法に要する耕地を、購入田地二八七四町六反九畝余・同畑地五〇町二反六畝余と、組備官田(くみそなえかんでん)(在方の藩保有地)二〇町三反余、合計二九四五町歩余と算定していたが(同前No.五九二)、それは概数に過ぎず、配賦範囲や細かな規則などの策定(さくてい)は後日の発表とされた。