さて、藩知事承昭が帰城した直後から同署では具体的な内容の策定を迫られ、明治三年十月十八日に第一の規則を定めた。これが「概略手続」と呼ばれるもので、主なものは次の各条項から成っていた(同前No.五九三)。
③農村移住の際には屋敷地も配賦すること。
まず、この条項で一番重要なのは①であろう。これによると、分与地に移住した士族・卒は年貢米を納めれば、残る部分は自分の自由となる。そう考えれば帰田法は最初から士族・卒の自作農化を意図したともみえる。ところが、帰田法は地主たちから大多数の耕地を確保しようとしていたから、当然その多くには小作人がいるはずである。もし、配賦を受けた士族らが自己の利益を得ようとすれば、小作人を追放しなければならないし、藩がそれを黙認すれば実際にそうなる恐れも十分あった。ところが、藩は布告段階で在方に混乱を招かないように、これまでの小作人はそうした疑念を抱くことなく耕作に専念するようにとうたっており、小作人の耕作権は保護する約束をしていた。当時、在方でも理由なしに小作人を追放することはまずなかったといってよく、そうした農村慣行を無視すれば全藩一揆のような混乱が生じたであろう。
さらにこの条項には大きな矛盾が潜(ひそ)んでいた。それは「作得米」を耕地配賦面積の基準にすると、総計では非常に過大な面積となり、当初藩が考えていた二九四五町歩余程度の耕地ではとうてい足りないのである。「作得米」を基準にして計算すると配賦耕地面積は当初予定の約一・五倍、四四〇〇町歩余にふくらんでしまう。
よって、これらの理由から藩ではすぐに別な方針を模索せざるをえなかった。さらに、「概略手続」発表直後から、地主・農民・士族らにより続々と分地願い・質地請戻(しっちうけもどし)願い・分与地の指定願いが提出され、藩はそれらの審査に追われることとなった(資料近世2No.五九四、五九五)。地主にしてみれば血のにじむような努力の結果集積した耕地を突然収奪されるのであるから、駆け込み的に分地願いを提出し、所有耕地を一〇町歩以下に細分化しようとした。たとえば、青森の西沢伊兵衛という人は寛政年間に死に絶えた親類の家を再興し、血縁者に土地を分地して先祖の霊を慰めたいと申し出ている。寛政年間といえばすでに六〇年以上経過しており、分地の理由としてはあまりにも無理がある。当局もかかる意図を見抜き、不許可にするとともに(「諸願書綴」明治三年十一月十八日条 弘図岩)、早速、別宅・分家について規定を定め、帰田法推進のための障害を除こうとした(資料近世2No.六〇一)。しかし、裏をかえせば、それだけ多数の民衆の反意が規則の見直しを余儀なくさせたということである。
また、帰田法では分与地の配賦は抽選によることとされたため、土地を与えられる士族側にしても事態は単純ではなかった。明治三年十一月に、士族高瀬裕之進は柏木(かしわぎ)組梅田(うめだ)村(現五所川原市梅田)に先祖の墳墓があり、同地に二反七畝余の屋敷地・裏畑があるという理由で、分与地をここに指定してほしいと願い出ている(同前No.五九九)。もちろん、この願いは藩により却下されているが、同時期に出された士族葛西協一の土地献納願いは許可されている(同前No.六〇〇)。というのも、葛西は前に一度、高瀬と同様の理由で分与地の指定願いを出しており、これが不許可となると、祖父源右衛門の代より開発・集積してきた土地を献納するという交換条件で、分与地の指定を得たのであった。そしてこの事実は、三年十一月ころには藩による土地集積が限界に達しつつあり、分与地確保のためには藩は相当の譲歩をしなければならなかったことを示している。
そのような事態に先立つ十月下旬、租税署は「概略手続」を撤回し、耕地算定の基準を「分米(ぶまい)」に改めた(同前No.五九七)。「分米」とは貞享の総検地で確定された反別収穫米の基準生産量で、村位田位(そんいでんい)により上村上々田(じょうそんじょうじょうでん)の一・四石から下村下々田(げそんげげでん)の〇・五石までランクがあったが(表26参照)、この時の改正では家禄一〇〇俵につき分米三〇石分の耕地が配賦されることとなった。ということは、中村中田の「分米」は一石であるから、分米三〇石分の耕地とは三〇反=三町歩となる。また、この家禄とは明治三年六月の藩政改革によって定められた家禄と規定された。さらに、分与地配賦の対象は、原則として家禄一五俵以上の士族・卒とするとされたが、家禄がそれ以下であっても、希望者には一律三反九畝(せ)を支給するとし、必ずしも軽格層を切り捨てる方向を示してはいなかった。
表26.分米高表 |
村位 田位 | 上 村 | 中 村 | 下 村 |
上々田 | 1石4斗 | 1石3斗 | |
上 田 | 1石3斗 | 1石2斗 | 1石1斗 |
中 田 | 1石1斗 | 1石 | 9斗 |
下 田 | 9斗 | 8斗 | 7斗 |
下々田 | 7斗 | 6斗 | 5斗 |
注) | 『津軽史事典』(1977年 名著出版刊)より作成。 |