仕事着

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津軽領には、天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)までに記録した「奥民図彙(おうみんずい)」(資料近世2No.二四六)に、絵入りの仕事着とそれについての記述がある。それによれば、男は野良着の上着に藍で染めたモンペを着ける。そして素足に草鞋(わらじ)をはき、また蒲(がま)の葉を編んで作った脛巾(はばき)つまり脚絆をつける。なお、この上にケラ蓑を着る場合がある。これは雨をしのぐためか、あるいは背当(せあて)をして荷物などを背負う場合に着る。さらに頭には藺草(いぐさ)で編んだ網笠(あみがさ)をかぶる。

図114.男の仕事着

 女の野良着姿は、年輩になっても眉毛のある者は風呂敷で頭を包むという。着ているものは、サシコ布つまり津軽の「刺(さし)こぎん」である。藍染めの麻布に肩から両袖と裾に刺繍(ししゅう)がしてある。帯は幅の狭い布を二重に締める。モンペをはくことは男と同様である。冬にはカツコロ(皮衣(かわころも)の詰まった呼名)という獣皮でつくった衣服を着した。皮の衣服は風を通さないので、凍傷予防に効果的で、犬の皮でつくったものが上等といわれている。

図115.女の仕事着


図116.カツコロ

 次に衣服規制が法令にどのように示されているかをみると左のようになる。
 『御用格』〈寛政本〉第一二(一九九一年 弘前市教育委員会刊)「被仰出之部」元禄十六年(一七〇三)三月条によれば、すべての農民が裁付(たっつけ)(本章第一節三(一)参照)と木綿合羽(かっぱ)の着を禁じられ、さらに髪に「きやら油」をつけ、町人などの風俗を模倣しないよう規制されている(資料近世1No.七七八)。
 「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条にみえる倹約令の第三条によれば、庄屋であっても裁付の着と雨降りの時に木綿合羽の使を禁じられ、股引と蓑笠の着が申し渡されている(資料近世2No.二一六)。
 さらに寛政二年(一七九〇)二月の倹約令では、第五条―庄屋以下すべての農民は小巾(こぎん)の着。第九条―郷士(ごうし)(郷村在住武士の総称)・手代(てだい)(地方(じかた)役人)身上柄(しんじょうがら)の者(富裕な者)には、雨降りの時に木綿の長合羽ではなく半合羽のみ許可されている。この規定に続いて「其外一統停止申付候」とあるので、一般農民木綿合羽ではなく、蓑の着であったようである。第一一条―郷士・手代重立(おもだち)の者(村の指導者層)は、踏込(ふんごみ)(本章第一節三(一)参照)と間違うようなものを着しないこと。庄屋以下すべての農民は股引とする。第一四条―女性の冠物(かぶりもの)は、唐風呂敷ではなく、古くからの「山すそ」という風呂敷を使すること。なお男女ともにこれまでの麻の「帯たな」を使すること(「国日記」寛政二年二月十一日条)。
 この規定は、寛政二年以降幕末までに出された主要な倹約令にも同様にみえており、男の服装は「奥民図彙」に記載されている仕事着とほぼ一致し、実態を示していよう。