安永元年(一七七二)ころ、楮町は畑作第一となり、一株の楮もみられなくなった。楮仕立てのために畑を貸与したのに、作人が交代したりしたこともあって、大豆・菜種などの有利な換金作物のみという状況になっていた。
天明の凶作・飢饉で荒廃した領内の廃田復興の事業が一段落した寛政十二年(一八〇〇)、楮町の者たちが相変わらず楮仕立てをしないので業を煮やした郡奉行は、畑一反歩に楮一〇〇株ずつ植え付ければ、数十年来の不埒を容赦すると厳しく申し渡した。しかし、申し付けどおり実行しなかったので、翌十三年、三一町歩余の畑は作人たちから引き上げて郡所支配になった。
松森町月行事高島屋孫右衛門(たかしまやまごえもん)が郡所御用支配取扱に任命され、五年間で楮町・新楮町の楮畑を復興すべく郡所樹芸方とともに尽力することになった。楮は苗を植えて約三年で紙漉の原料として使用できるが、一〇年ほどで廃木になり更新が必要であった。
文化二年(一八〇五)、楮も生育し、紙漉に着手すべき時期になったので、孫右衛門は紙漉技術者を呼び下した。楮畑の中に仮小屋を建てて、楮仕立ての指導や試し漉きなどに努めた。この紙漉の手付きなどをしていた人たちが、後に松森町の紙漉と呼ばれるようになった。
孫右衛門は、文化十一年死去。その後継ぎに土手町三國屋勘左衛門(みくにやかんざえもん)・松森町中村屋久左衛門・高島屋半左衛門が任命された。文政元年(一八一八)、小納戸(こなんど)金をもって国産方を設け、北村源八を御用係に起用して殖産興業を図ることになり、前記三人は松森町紙漉とともに郡所支配から国産方支配になった。翌二年五月の「国日記」に松森町紙漉亀次郎・仁八・清之・銀七・源治・周次郎の名がみえる。文化二年に呼び下した紙漉の弟子になった者たちである。文政五年(一八二二)、紙類などの国産物の生産が増大したことを国産方が藩主に報告するまでになった。
打ち続いた天保の凶作は領内の産業を衰退させ、製紙業も例外ではなかった。天保十年(一八三九)、国産方は廃止され、松森町紙漉は以前のとおり郡所支配になり、御用紙の漉き立てを下命された。
慶応三年(一八六七)、土手町名主が作成した「土手町支配家業帳」(弘図八)には、土手町東端から楮町の入口に至る松森町に、植田屋亀次郎の孫兵吉をはじめとして一七軒の紙漉が記録されている。