嘉永七年(一八五四)、荒田(あらた)村(現南津軽郡平賀町)の庄屋吉五郎は、貸与された楮町の畑一町五反歩に人参栽培を始めた。その結果が良かったので安政四年(一八五七)五月、藩ではさらに一五町歩の楮畑を作人から引き上げて吉五郎に預けた。このころ、楮畑には楮はほとんどみられなかった。安政三年に買い上げた領内生産の楮皮二一〇貫のうち、楮町から出荷されたのは、わずかに七貫という状態であった。
翌五年(一八五八)春、星弘道の指導で人参を栽培するとともに楮仕立てをも試みたところ、楮の生育が極めて良好だったので、残る一五町歩の畑をも吉五郎に預け、楮仕立てに尽力するように命じた。楮町の畑三一町歩は吉五郎の人参・楮畑となった。吉五郎は楮仕立資金二〇〇両の拝借を願い出たところ、人参上納前渡金の名目で許可になった。
楮苗の大量確保の明るい見通しを得た藩では、楮の増産によって製紙業の振興を図るため、直営の紙漉座を設けた。安政六年(一八五九)十月、御用人楠美荘司(くすみしょうじ)が楮仕立・紙漉座御用係、勘定奉行浅利(あさり)七郎次が楮仕立御用係に任命された。事業資金には算用師(さんようし)山(現北津軽郡小泊村・現東津軽郡三厩村)の伐木代金を充当することになった。
紙漉座の用地として紙漉町熊谷喜兵衛の家屋敷(現市内紙漉町、文化幼稚園敷地)が接収された。さらに、先進地秋田仙北の紙漉周吉・金蔵らを招いて製紙改良の指導を仰いでいた喜兵衛と、共同経営者今井(いまい)屋俊蔵は、紙漉座を整備するため金六〇両の拝借を藩に願い出て許可された。安政六年のことである。
万延元年(一八六〇)四月、藩では薄市(うすいち)山(現北津軽郡中里町)四〇数町歩余を開発して楮仕立てをすることになった。苗は、吉五郎が星の指導を受けて仕立てている楮畑のものを使用する計画であった。事業の本格化に伴い、担当役人の陣容が強化された。御用人本多東作(ほんだとうさく)・佐野茂助、勘定奉行寺田慶次郎(てらだけいじろう)ら一七人と手付き七人が、紙漉座・楮仕立方に任命された。星は楮仕立方頭取として薄市村に移住し、仕立ての適地を検分・奨励のため領内を巡回した。吉五郎は仕立方下取扱、秋田仙北の紙漉周吉が紙漉座頭取に任命され実務を担当、今井屋俊蔵は紙漉座下取扱として漉座の経営に当たることになった。この年九月、三国屋(みくにや)久左衛門が事業資金として一五〇〇両を上納、楮仕立方下取扱を仰せ付けられた。
翌文久元年(一八六一)春、家老・用人・大目付が二度にわたって楮町の楮畑と、紙漉町の紙漉座とを検分に訪れた。同じころ、仕立方御用係勘定奉行寺田慶次郎・永野弥作(ながのやさく)らが、薄市開山の検分のため中里村に出張した。事業が順調に進んでいることを示している。
文久二年八月、弘道を庇護し事業を推進してきた家老大道寺族之助が病死した。十月、星弘道は薄市で逮捕されて弘前に護送、馬喰町の揚屋(あがりや)に収容され吉五郎も召し捕らえられた。逮捕の理由は全く不明である。そのため同十一月、藩営の製紙事業は中止となった。その後、紙漉座の諸道具と原料の楮および施設一切を貸与された今井屋俊蔵は、藩の御用紙漉として事業を引き継ぐことになった。
星弘道は、明治二年(一八六九)二月四日、非常の大赦によって釈放され、十一日、楮町の古川吉五郎宅で六十五歳の生涯を閉じ、西茂森町泉光院(現市内西茂森二丁目)に葬られた。
図135.星弘道の墓
一方、今井屋俊蔵は佐々木新蔵と改名、明治十年(一八七七)に病死するまで、払い下げられた紙漉町一番地(現文化幼稚園敷地)の紙漉座跡地で製紙業を続けた。