絹・木綿・布(麻)等の織物の需要は自家用として織られた布(この場合は苧麻(ちょま)〈からむし〉)を除き、多くは他領からの移入に頼っている。木綿は原料となる繰綿(くりわた)(綿の実の種を取り去ったままで精製していない綿)や篠綿(しのわた)(糸を紡ぐ前の撚(より)のかかっていない軟らかい太い綱状の綿を、篠竹に巻き込んだのち、篠竹を抜き取った筒状に巻かれた綿)を移入してそれを糸に紡(つむ)がせて織らせたほか、上方からの古木綿が使われていた。
織座で織られたものは主として領内で生産された生糸(きいと)で織った絹製品で、当初は平織(ひらおり)(経糸(たていと)と緯糸(よこいと)とを一本ずつ交互に組織した簡単な織物)、次いで羽二重(はぶたえ)・綸子(りんず)(経・緯とも生糸を用い後で精練したもので光沢と粘りがある)・畦織(あぜおり)(経糸か緯糸が互いに他の一方の糸数本を超えて組織し、縦か横方向に畦をあらわした絹織物)さらには茶苧(ちゃう)(琥珀(こはく)織〈緯方向に低い畦がある平織物〉に似て軽く薄い上品な絹布)・龍文地(平織の一種で羽二重に似ている。文様を織り出したものもある)および紬(くず繭からつくった糸を緯に用いた真綿を手紡ぎした手織の絹織物)などが織られていた。ただし御用物の高級品の調達には京・江戸に求める場合もあった。
「国日記」元禄十六年(一七〇三)三月九日条に、欲賀庄三郎による弘前織の袴地二反献上と、弘前の名を付した名称が初めてみえる。その後弘前織帯地・弘前織反物および弘前嶋(縞)・弘前小嶋・御国織嶋などと弘前や御国を付した名称が出てくるようになる。
藩政時代、年代により差異はあるが士・農および一般庶民の衣・食・住には規制が設けられ、奢侈は厳しく禁じられていた。衣については士を除き絹は禁止。農民の日常衣は苧麻や古木綿に限られていた。苧麻は耐久性を増すため藍染とし、またこぎん刺し(木綿糸で幾何学的模様に刺しこんだもの)によって保温性と強度を高め、美しさもそえていた。