『伝類』などによって示すと次のようになる。
○〈剣術〉当田半兵衛(とうだはんべえ)(?~一六九四)
当田清源正元(とうだせいげんまさもと)の五代の孫で、父は松田仁兵衛(まつだじんべえ)。忍(おし)藩主阿部(あべ)忠秋に仕え、一三〇〇石、側用人(そばようにん)。由井正雪(ゆいしょうせつ)・丸橋忠弥(まるばしちゅうや)と親交があり、慶安(けいあん)の変が起こった際に疑われて奥羽地方に下った。仙台に潜伏した後に、四代藩主津軽信政に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。富田(とだ)流の正統を受け継いだが、藩では当田(とうだ)流の祖となる。門人三〇〇余人といわれた。
○〈剣術〉山田仁右衛門広久(やまだじんえもんひろひさ)(生没年不詳)
先祖は伊賀の人。江戸へ出て梶新右衛門正直(かじしんえもんまさなお)に従って梶派一刀流を学んだ。天和二年(一六八二)信政に召し抱えられ、元禄十二年(一六九九)一五〇石を賜った。門人中、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)・安藤七右衛門(あんどうしちえもん)・松野七右衛門(まつのしちえもん)・田中宗右衛門(たなかそうえもん)は四天王といわれた。
○〈剣術〉山鹿次郎作高厚(やまがじろうさくたかあつ)(?~一八四三)
津軽山鹿家四代八郎左衛門高美(はちろうざえもんたかみ)の次男。江戸で中西忠兵衛(なかにしちゅうべえ)の門に入り、小野派一刀流を学んだ。寛政十一年(一七九九)九代藩主津軽寧親(つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき)の時代、文政八年(一八二五)五〇石を加増され側用人(そばようにん)となった。
○〈剣術〉小山次郎太夫貞英(おやまじろうだゆうさだふさ)(生没年不詳)
初め山形半十郎茂倫(やまがたはんじゅうろうしげとも)より当田流剣術の伝授を受けた。その後、家老棟方作右衛門貞良(むなかたさくえもんさだよし)に従って塚原卜伝流の奥義を伝授され、五代藩主津軽信寿(つがるのぶひさ)の享保十一年(一七二六)藩士師範を命じられた。弟に卜伝流の達人小山太郎兵衛英長(たろうべえひでなが)がいる。
○〈馬術〉青沼勘右衛門盛明(あおぬまかんえもんもりあき)(?~一七〇一)
先祖は武田信玄(たけだしんげん)の家臣青沼助兵衛(あおぬますけべえ)。父は青沼藤兵衛盛長(とうべえもりなが)で、三代藩主津軽信義(つがるのぶよし)の時、慶安二年(一六四九)馬役として召し出され、大坪(おおつぼ)流を梅田理右衛門(うめたりえもん)から、神道(当ヵ)流を花井荘左衛門から免許皆伝を受けた。勘右衛門盛明は初め半助といい、代々藩の馬役の師範を務めた。
○〈槍術〉高田平右衛門正重(たかだへいえもんまさしげ)(生没年不詳)
越後国高田の出身である。宝蔵院覚禅法印胤宗(ほうぞういんかくぜんほういんたねむね)の高弟で、四代藩主信政の時に召し抱えられ、宝蔵院流槍術の師範となった。弟子は山本三郎左衛門(やまもとさぶろうざえもん)・浅利伊兵衛(あさりいへえ)など多数。
○〈弓術〉本間民部左衛門匡隆(ほんまみんぶざえもんまさたか)(生没年不詳)
本名は木村典膳。初め和歌山藩に仕えたが、ゆえあって同士を打ち果たし、江戸へ出て本間民部左衛門と改名し、弓術(石堂竹林流)の師範をした。門人二七〇〇人余にのぼったという。元禄十五年(一七〇二)江戸で四代藩主信政に召し抱えられ、正徳二年(一七一二)に再び本名に改め、多くの門人を指南した。
○〈炮術〉阿部与七郎宗定(あべよしちろうむねさだ)(?~一六三五)
先祖は阿部八郎。駿河国(現静岡県)に居住。初代藩主津軽為信に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。鉄炮の名人で、翌三年「鉄炮与七郎」の名前を頂戴した。寛永十二年没。子孫代々炮術師範を務めた。