修験

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修験大行院(だいぎょういん)は修験司頭として、真言宗醍醐(だいご)派(当山派)の大峰派に属する。元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によれば、大峰派=修験山伏六六人を配下に置いている。また、天台宗聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)(本山派)に連なる羽黒派に属する山伏が二人いる。最勝院修験支配のあり方は不明であるが、ここに属する修験は七人いて、その中心は心応院であった。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大峰派六六人、羽黒派六人を数え、心応院熊野宮(現熊野奥照神社)境内にあって大行院支配となっている。
 図200をみると、山伏は領内各地の加持・祈祷を行うことで、領民の生活と密接なつながりをもっていたことがわかる。領内の神職は、宗教活動の範囲を示す「(かすみ)」を所有したが、修験はこれを持っていなかった。神職のテリトリーであり、修験がこの中で宗教活動をすると摩擦を生じることになる。宝暦六年(一七五六)に大行院から寺社奉行に対し、神職内で修験祈祷を排除する動きに抗議が出された。このことは最勝院を通して社家頭に伝えられたが、社家頭祈祷は依頼する施主である檀那の信仰によるという立場を主張し、問題の解決には至らなかった。
 修験の中でも大円寺は真言宗高野山別行派に連なった。

図200.修験本末関係図(1)


図201.修験本末関係図(2)