神宮寺

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神宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の別当であった。「天台宗縁起」(同前No.四〇七)によれば、延暦十四年(七九五)、坂上田村麻呂が蝦夷と交戦中、深沙大権現に助けられたことから深沙宮を祀ったという。熊野系の修験である福王寺玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた。天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年、領内統一の妨げになるとして別当延命院を追放、真言宗最勝院別当を兼帯させた(「津軽一統志」『記類』)。元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当神宮寺とし一〇〇石を寄進した。塔頭はそれまで一二院あったが、蓮乗院・東光院・明王院・正福院の四院とし、各一五石を寄進した。神主は四人を配したが、中には神子山伏出身の者もいた。元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており、禰宜・道心者(どうしんじゃ)(仏道修行者)が住んでいた。
 明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号が移された。蓮乗院は存続したが、寺禄廃止に伴い明王院・正福院の二院は廃院となった。