長勝寺

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長勝寺(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、大浦光信が種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去する時、一寺建立を遺言したため、その子盛信によって創建された。菊仙が招かれて開山となり、寺号は光信の戒名「長勝降栄大居士」によった(資料近世2No.四〇五・四一四)。為信の時に種里から堀越城下・大浦城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。このため、為信を中興の開基とする。慶長十五年(一六一〇)、弘前城築城にあたり、防衛のために長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)がつくられ、長勝寺はその中心に据えられた。この時、庫裡(くり)は大浦城の建築物を移して使した。
 領内曹洞宗僧録所であったが、その存在は寛文五年(一六六五)曹洞宗関東触頭によって認められた(同前No.三八四)。通幻派に属し、その本拠である丹波の永沢寺の住番には、二世秋澗・八世格翁・一三世在州が就いている。また、総持寺へは七世直翁・八世格翁が勅住として入り、勅特賜(ちょくとくし)の禅師号を授けられた。
 藩主家曹洞宗を信仰してきたが、信枚が天台宗に改宗し、後に建立される報恩寺菩提寺に改めた。しかし、長勝寺はこれまで菩提寺として重きをなしていたため、信著は遺言で長勝寺へ埋葬させたことから、報恩寺と墓所をめぐる争いに発展した。為信の正室・信枚・信枚の正室・信義・信著・信興の廟所が築かれたが、現在信興の廟はない。昭和二十九年(一九五四)には報恩寺から藩主家五輪塔が移された。

図214.長勝寺