大行院(だいぎょういん)は、
真言宗醍醐寺三宝院(現京都市)の末寺で、領内
修験司頭として大峰派、羽黒派の
修験=
山伏を統轄した。「
堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によると、近江国飯道寺岩本院の袈裟筋にあたる
大行院永尊は、慶長十七年(一六一二)、津軽に来着、正保元年(一六四四)、
修験司頭を命じられ、寺領三〇石が寄進された。翌二年より毎年、領内の
山伏を集め、
藩主の繁栄と領内安全の
祈祷を行うようになった。承応二年(一六五三)、花輪(鼻和)庄八幡郷より新寺町
報恩寺東隣へ移転、宝暦四年(一七五四)、茂森の
常源寺坂へ移った。正徳元年(一七一一)の「
寺社領分限帳」によると、大峰派九八人、羽黒派一二人、合わせて一一〇人の
山伏を束ねていた。享保十年(一七二五)の干ばつでは南溜池に祭壇を設け、
雨乞いの
祈祷を行ったところ、多くの人々の見物があった(「
国日記」)。明治三年(一八七〇)、
神仏分離により、
修験は
橋雲寺から移された
天満宮の
祠掌となった。
図223.大行院跡にある天満宮