寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ))を移し、領内五穀成就を祈る祈祷所を建立した。この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭との間で衝突が起こった。山村伊勢・和泉父子は吉田家へ越訴(おっそ)に及んだが、これまでの神職組織を変えるまでには至らなかった(篠村正雄「津軽藩における神職の官職受領について」長谷川成一編『北奥地域史の研究』一九八八年 名著出版刊)。延享三年(一七四六)には松尾宮が勧請され、安永六年(一七七七)、弘前の造酒屋の手で再建された。弘化三年(一八四六)、修復のための富籤発行願いが出された。
図228.護穀神社