寛治五年(一〇九一)、神託により北麓から一〇〇の沢を越えて南麓に移り百沢寺(ひゃくたくじ)と称した。天台系の密教(台密(だいみつ))の影響を受け、熊野三山を岩木山に充て、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により中央の国常立命(くにとこたちのみこと)を阿弥陀如来とし、岩木山百沢寺光明院と左峰の国安珠姫(くにやすたまひめ)(田都比(たつひ)姫)を十一面観音とし、十腰内の巖鬼山西方寺観音院と右峰の大己貴命(おおなむちのみこと)を薬師如来として松代の鳥海山永平寺景光院に配置し、岩木三所大権現とした(「津軽一統志」)。山頂に奥宮本宮、里宮として下居宮が建てられた。天正十七年(一五八九)の岩木山の噴火で諸堂が焼失したといわれ、為信が慶長六年(一六〇一)に下居宮、同八年に大堂を再建、寺領四〇〇石を寄進し塔頭一〇院と神主安倍を配した(資料近世1No.一七一、正徳元年の「寺社領分限帳」)。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)によれば、大堂(拝殿)の本尊阿弥陀如来と脇立の十一面観音・薬師如来は信政、本尊を納める「御宮殿」と呼ばれる厨子は信義が寄進した。神仏分離で百沢寺は廃寺となり、本尊と厨子、棟札は長勝寺、山頂の聖観音は専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。岩木山は止山(とめやま)で平常は入山を禁止されたが、八月一日(八朔(はっさく))から十五日までは「お山参詣」が許され、村落ごとに豊山祈願のための登拝が行われた(黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』一九九七年 北方新社刊)。
図229.岩木山神社