藩士の信仰

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藩士の信仰としては、三代藩主信義が明暦元年(一六五五)に死去すると、四人の殉死者があった。その一人、山本安次が母へ宛てた遺言に、「いさ清く御馬のさきにて相果候と思召ならされ候ハヽ、めいとに於て難有嬉しくそんしまいらせん」とある。戦場で君主の馬の先で死ぬことは武士にとって名誉であるので、私の死をそのように考えてもらえれば、冥土にあっても嬉しく思いますといった内容である。もう一人の都谷森甚之丞は母に対し、君の後を追いかけ、三途(さんず)の川の瀬踏を覚悟し、冥途(めいど)で会うつもりでいると伝え切腹した。仏教では、死後の世界冥土に行く途中に三途の川があり、善人は橋を渡る。川には緩急の異なる三つの瀬があり、生前の罪業によって渡る場所が異なり、川岸には鬼形の姥がいて衣を奪うという。うら盆の時に寺院に掛けられる「地獄絵」の絵解きの説明を、この二人は理解していたようである(資料近世2No.四二四)。万治元年(一六五八)、家老津軽信隆が死ぬと、家来二人が殉職した。その一人、高屋政次は、「あゝ死にたくなや うき世の義理のあればこそ 死出の山路の供するかな」と辞世の歌を残し、死後のあり方についてふれている(『伝類』)。

図244.信義廟所内の墓石(向かって右が山本安次の墓石)

 庚申信仰藩士の間にも行われており、原田理兵衛宅に庚申講の仲間四、五人が集まって、夜通し面白い話をしながら過ごしている(資料近世2No.四二四)。普門院(現市内西茂森二丁目)境内にある天保三年(一八三二)の庚申塔には、町人に混じって藩士八反田縫之丞菊池玄屯の名前があり、ともに庚申講を組織していた(同前No.四四六)。
 大円寺の五重塔は寛文七年(一六六四)に完成した。平成三年(一九九一)の台風一九号の被害で解体修理された時に、龍車から納入物が見つかった。寛永通宝を包んだ宝永四年(一七〇七)の結縁交名(けちえんきょうみょう)には、「外崎文次郎おなべこ おりんこ いんこ とりこ」などとみえ、女性の名前も記されていた。また、過去・現世・未来と三世の祈祷や一門九族の武運長久・延命を祈った願文もあった。
 日ごろ、藩士神道儒教仏教兵学を学んでいるが、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度が整備されてくると、日常生活の中にも仏教思想が浸透し、死を覚悟する際も仏教による説明がなされた。