伊勢参りは、江戸中期になると社会の安定・経済の発達から盛んとなり、津軽領では人別銭(にんべつせん)を課し、代表者が参宮するようにしたが、それにとどまらず個人で出かける者が続出した。伊勢参りを禁止すると、今度は抜参(ぬけまい)りとなってあらわれた。しかし、伊勢から遠く離れていたためか、慶安三年(一六五〇)など特定の年に爆発的に起こった「御蔭参(おかげまいり)」の現象はみられなかった。「西谷平兵衛日記」(青森県立図書館蔵)と平尾魯仙の「合浦(がっぽ)奇談」(弘図郷)には、嘉永四年(一八五一)に津軽黒石領の犬が伊勢参りをし、首に御祓と金子一分・銭二〇〇文を付け、秋田から駅送りで黒石へ帰った話を載せる。伊勢参りしたものが、伊勢から種籾(たねもみ)「山田錦」を持ち帰り、栽培・普及した記録は津軽では見つかっていない。
安永九年(一七八〇)、抜参りの者が藩の江戸藩邸上方屋敷に立ち寄り迷惑をかけるので、家出した者を三〇日間搜してみつからなかった時は、親戚や向両隣から支配頭へ届け出るよう布令を出した(『御用格』)。寛政四年(一七九二)、禁止している抜参りに出かけた者は、人別・戸数改の際帳外(ちょうはずれ)とし、藩の江戸屋敷では世話をしないし、幕府・他藩に迷惑をかけた者は処罰する布令を出して、厳しい取り締まりを行った。また、ここでは、領内三十三観音参りに出るといってそのまま抜参りする者もあり、人手不足の折は耕作にも支障があるので、町・村役人によく吟味させた(資料近世2No.四五八)。このように厳しく禁止しても抜参りは後を絶たなかった。嘉永三年(一八五〇)には、関所・町・在・寺院に対し抜参りを厳重に取り締まる布令が出ているが、これは関所の通行手形・寺請証文を発行する者への注意であった(同前No.四五九)。