運輸事業

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運輸に関しては、明治政府は明治元年五月に商工業の自由な発達を図るため、商工業の株仲間制を廃止し、さらに同月には関所を廃して交通の自由を図り、居住の自由を認めた。また、江戸時代には、自領の物価調節・産業保護のために、津留(荷留)といって、米穀その他の産物の藩外移出を制限してきたが、明治二年九月にはこの制度も廃止され、商業交通の制限が次々と取り払われていった。
 明治政府は当初、公用文書の逓送を旧来の伝馬所に行わせていたが、各地の伝馬所に代わって陸運会社を自由に設立することを許し、明治五年八月にはそれまでの伝馬所・助郷の旧制は全く廃止となり、公私貨物の逓送はすべて陸運会社が取り扱うこととなった。しかし、財産に乏しく苦しい営業を強いられ、継立(つぎたて)の強要や社外の人馬の徴発など強権的な傾向が目立った。そこで政府によって、陸運会社解散政策並びに陸運元会社を中心とする継立網の再編成が進められ、陸運元会社は明治七年五月には諸道の人馬継立業にも進出し、陸運会社解散に先立つ明治八年二月には、社名を内国通運会社と改称した。そして同年四月三十日には、内務省から五月末限りすべての陸運会社の解散を命ずる布達が発せられた。
 弘前では通運の取り扱いは、初め馬渡周助が手がけ、後に葛西宇八郎がこれを引き継いだ。明治十三年(一八八〇)六月十日付で県から「公立人馬継立所設置の件」について次のような布達が出された。
物貨運搬の便は一日も欠くことのできぬもので、本県は明治八年以降内国通運会社に対し、人馬継立の渋難なきを期して利益が僅少で継立に差支える会社には人民協議費から補助させ、あるいは人馬順番法を設けて維持して来たが、会社の都合から最近解社を申出るものがあり、これがため人馬継立に差支え、物貨運輸の道が塞り、行旅の難渋一方(ひとかた)でない。よって適当の個所に更に公立人馬継立所を設置し、その駅村中から取扱人を選挙し、左に記載する範囲で適当の賃銭を定め取扱うようにされたい。維持の方法については、人馬の附属を乞うものが多いと思うから別段の方法を設けずともよいと思うが、万一の維持困難を考え、町村会もしくは町村聯合会に議定させる必要がある。但し人馬銭は県庁の裁定を要する。
一 人足一人  量目七貫目持ち
 平坦地一里について五銭から七銭まで、山坂や嶮難の場所は本賃額の一割から二割増し
一 馬一疋  量目四十貫目
 平坦地一里について六銭から八銭まで、山坂嶮難の場所は二割から三割増し
一 乗馬一疋  本賃額の五割増し以内
一 点燈より消燈までの夜中継立は本賃額の四割増し以内
一 雪中悪路は三割増し以内
一 人馬継立手数料は本賃額の一割を雇主から請求する
(前掲『青森県議会史』自明治元年至明治二十三年より抜粋)

 明治十二、三年ごろ、中津軽郡聯合会は、公立人馬継立所の設置を決定し、その取扱人には葛西を指名した。これには、郡役所から補助金が与えられた。十七、八年ごろになると小野貞助(初代和徳村村長。弘前駅前で倉庫業、鉄道貨物取扱業などを経営)との競合が始まったが、間もなく補助金がなくなって、継立所は廃止になった。
 明治前期における陸運の伸展に伴い、青森県においてもそれらに関する法整備が進められた。明治十七年(一八八四)九月十五日には、馬車営業取締規則が施行されたが、同法は明治十九年四月一日の駅伝営業取締規則の施行により廃止された。駅伝営業とは、陸運請負業、陸運継立業、宿屋業、渡船業及び陸運稼業(乗合馬車橇、荷牛馬車橇、人力車橇、荷牛馬人足)を指し、これらの駅伝営業者に対し組合設立を義務づけるとともに、その組合ごとに設置した駅伝取締所に駅伝取締人を一人配置することを定めている。駅伝取締人は駅伝営業人の公選により県が任命した。
 さらに、陸運に関しては、県によって細かな規則が定められ、例えば次のような布達が出されている。
第八〇号
明治十九年四月一日ヨリ県下左ノ路線内ニ於テ荷牛馬二頭以上ヲ連牽スルヲ禁ス
 一 青森ヨリ弘前碇ヶ関ヲ経テ秋田県下ニ至ル    一線
 一 浪岡ヨリ黒石ヲ経テ大鰐ニ至ル         一線
 一 青森ヨリ野辺地三戸ヲ経テ岩手県下に至ル    一線
 一 大釈迦ヨリ原子五所川原木造ヲ経テ鰺ヶ沢ニ至ル 一線
 一 弘前ヨリ種市ヲ経テ木造ニ至ル         一線
 一 弘前ヨリ黒石ニ至ル              一線
 一 五戸三戸ヨリ八戸ヲ経テ鮫ニ至ル        一線
右布達候事
 明治十八年十二月二十六日            青森県令 福嶋九成

 また、明治二十年(一八八七)五月二十五日には、県令第四九号で陸運営業規則を定め六月一日から施行、同年九月一日には県令第七〇号をもって乗合馬車取締規則、県令第七一号をもって営業人力車取締規則を施行した。以下は乗合馬車規則の抜粋であるが、当時の乗合馬車の様子がおおむねうかがえるであろう。
 乗合馬車取締規則
  第一章 通則
第一条 乗合馬車営業ヲ為サントスルモノハ所轄警察署又ハ分署ヲ経由シテ県庁ニ願出免許証ヲ受クベシ

第二条 此規則ハ乗合馬橇(そり)営業ニモ亦之を適用ス

第三条 営業者ニ関スル願届ハ総テ頭取ノ加印ヲ要ス

第四条 営業者ハ馭者(ぎょしゃ)馬丁ノ族籍住所氏名年齢ヲ所轄警察署又ハ分署ニ届出一人ニ付鑑札一個ヲ受クベシ

第五条 営業者自ラ馭者馬丁ノ業ヲ為サントスルトキハ総テ馭者馬丁ノ例に従フ

第六条 馭者馬丁ノ鑑札ハ毎年五月警察署又ハ分署ノ検査ヲ受クベシ其検査ヲ受ケザルモノハ無効タルベシ

 (中略)
  第二章 車体馬匹及器具
第十六条 車体ハ堅牢ニシテ其構造及附属品ハ左ノ制限ニ従フベシ

 一 車ハ四輪以上ニシテ適当ナル駐車器ヲ備フベキモノトス

 二 車体ハ無地漆塗ニシテ其屋根ハ木製ノモノトス

 三 客座ハ清潔適当ノ装置ヲナスベキモノトス。但一人ノ座席ハ巾一尺二寸ヲ下ルベカラズ

 四 車輪ニ泥除ヲ設クベキモノトス

 五 車体前面ノ両側ニハ硝子灯又ハ提灯ヲ備フベキモノトス

 六 運転器、心棒、撥条力、革手綱及其他ノ器具ハ堅牢強靱ノモノヲ用ユベキモノトス

第十七条 馬匹ハ五才以上ニシテ強壮ナルモノニ限ルベシ

  第三章 馭者馬丁ノ資格及服装
第十八条 馭者ハ満二十年以上、馬丁ハ十八年以上ニシテ身体強壮ナル者且馭者ハ馭術ニ熟達スルモノニ限ルベシ

第十九条 前条ノ資格ニ適合スト雖モ酔狂又ハ暴行ノ癖アル者若クハ強窃盗強姦及過失ニアラザル殺傷罪ヲ犯シタルモノハ馭者馬丁タルコトヲ得ズ其他ノ犯罪ト雖モ監視中ノモノ亦同ジ

第二十条 馭者馬丁ハ左ノ制限ニ従ヒ組合毎ニ一定ノ服装ヲ為スベキモノトス

 一 馭者 帽子又ハ丸笠筒袖ヅボン又ハ股引靴

 二 馬丁 帽子又ハ丸笠法被股引又ハ半股引雨具ハゴム引又ハ桐油製ノ合羽ヲ用ユベシ

  第四章 馭者馬丁ノ就業規則
第二十一条 証票及乗合馬車取締規則ヲ所持シ警察官吏又ハ乗客ニ於テ見ンコトヲ求メタルトキハ直ニ之ヲ示スベシ

第二十二条 頬冠其他不体裁ノ形装ヲ為スベカラス

第二十三条 馭者ハ馬車ヲ離ルベカラズ但馭者避クベカラザル事故アルトキハ馬丁ヲシテ馬車ノ管守ヲ為サシムベシ

第二十四条 老幼及婦女昇降ノ際ハ懇篤ニ保護ヲ為スベシ

第二十五条 乗客着席シ又ハ降車シ畢(おわ)リタル後ニアラザレバ車ヲ進行スベカラズ

第二十六条 乗客中粗暴ノ所為アルトキハ之ヲ制止シ若シ肯ンゼザルトキハ降車セシムベシ

第二十七条 馭者台ニ客ヲ乗載シ又ハ屋根ニ物品ヲ載スベキ構造ヲ為サズシテ物品ヲ載スベカラズ

第二十八条 行車中ハ飲食又ハ喫煙ヲ為スベカラズ

第二十九条 制止ヲ肯ンゼズ出火場其他群集ノ場所ニ馬車ヲ入ルベカラズ

第三十条 他人ヲシテ馬ヲ馭セシムベカラズ

第三十一条 行人ニ対シ言語動作ヲ以テ乗車ヲ勧メ又ハ侮慢ノ言語ヲ為スベカラズ

第三十二条 馬車ヲ並ベ馳セ又ハ濫ニ疾駆シ若クハ競走スベカラズ

第三十三条 馬車ノ通行及避譲方ハ左ノ例ニ従フベシ

 一 馬車道ノ設ケアル場所ハ左側其設ケナキ場所ハ中央ヲ通行スベシ

 二 馬車及歩行者ニ行逢フトキハ左ニ避ケ軍隊並砲車輜重車ニ対シテハ右ニ避クベシ

 三 実車ニ対シテハ空車之ヲ避ケ坂道ハ上リ車又ハ空車ニ於テ避譲スベシ

 四 前車徐行シ後車疾行セントスルトキハ後車ヨリ合図ヲ為シ前車ハ左ニ避ケ後車ハ右ヲ通過スベシ

 五 郵便用消防用ニ供スル車馬及灌(かん)水車又ハ葬送等ニ行逢フトキハ避譲スベシ

第三十四条 二車以上引続キ進行スルトキハ後車ハ前車ヨリ五間以上ノ距離ヲ取ルベシ

第三十五条 往来雑踏又ハ狭隘ノ場所及街角上ヲ通過スルトキハ徐行シ相当ノ合図ヲ為シ且ツ馬丁ヲシテ前行セシムベシ、街角ニ於テハ右ハ大廻ヲ為シ左ハ小廻ヲ為スベシ

第三十六条 街角橋上其他往来ノ妨害ト為ルベキ場所ニ於テ客ヲ昇降セシムベカラズ

第三十七条 馬匹ヲ残虐ニ使用スベカラズ

第三十八条 夜中灯火ナクシテ行車スベカラズ

第三十九条 車体馬匹ハ常ニ清潔ニスベシ

第四十条 定員三分ノ一ノ乗客アルトキハ正当ノ理由ナクシテ出車ヲ拒ムベカラズ

第四十一条 乗客降車ノ際ハ其遺留品ナキヤニ注意シ若シ之アルトキハ直ニ返付スベシ其主分明ナラザルトキハ速ニ最寄警察署、分署又ハ巡査交番所、派出所ニ届出ベシ

(前掲『青森県議会史』自明治元年至明治二十三年より抜粋)


写真27 馬車会社