明治三十七年四月二十一日、憲政本党代議士工藤行幹が急逝した。自由民権運動以来、本県大同派の指導者として国政・県政・郡政に活躍、連続当選し、衆議院の全院委員長を務め、硬骨派として重きをなしていた。さらに、明治四十一年の衆議院選挙では、大同団結運動以来県の政界を領導してきた菊池九郎の突如の隠退が起きた。菊池は、福島県の河野廣中とともに東北の二雄と言われていた。選挙には、急遽県会議長の弘城政社幹事石郷岡文吉が立候補し、弘前出身の中立派の万朝報記者齋藤久三郎にわずか五九票の差で辛勝した。
かくて、二十年間県の政界を支配してきた弘城政社の牙城は揺らぎ、内部の石郷岡文吉と小山勝次郎の対立、そして憲政本党の分裂と青森県支部の解散、新たに結成された立憲国民党県支部の青森移転などと、弘前は地滑り的に政治力を失い、代わって南津軽郡の党人・榊喜洋芽、工藤善太郎、竹内清明、加藤宇兵衛、北山一郎らが県政の実権を握った。
本県衆議院議員は、明治四十三年の政治分野では、六人の代議士のうち、国民党は石郷岡文吉、小山内鉄弥、市田兵七、竹内清明の四人、政友会は大坂金助、阿部政太郎の二人で、県会はじめ各政治分野で国民党の力は絶対だった。しかし、四十三年三月十三日、憲政本党を主体に結党した国民党の議員は九二人、これに対して政友会は、明治三十七年一三九人、三十八年一四九人、三十九年一七一人、四十年一八〇人、四十一年一九三人、四十二年二〇四人とうなぎ登りの勢力伸長だった。そして常に内閣の与党だった。
時代は、代議士は国事に奔走し、県政・郡政はそれぞれに任せるという時代でなく、県の施策のため、地方産業振興助勢のために活躍を求められた。このため、竹内清明と政友会本部の原敬を軸に極秘裡に国民党県支部解散、政友会入党を幹部らが決断、明治四十四年七月十日青森市で国民党各郡市代表委員会を開いて、各代議士出席のもと満場一致、国民党脱党、政友会入会を決議した。