弘前高等女学校の開校

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県内には弘前女学校があるだけで、高等女学校を設置しようという動きが生まれてきたのは明治三十年代まで待たなければならなかったが、女子の初等教育における就学率が向上するにつれて、さらに上級の学校に進学を希望する者が増加した。そして三十四年には、ついに女学校令の制定となった。
 これによって女子の中等教育の制度は著しく整備されることになった。女子の学齢児の就学率はどうであったかというと、弘前市では学齢児童の比率は、八〇・三五%(うち男九四・二五%、女六六・三九%)となっており、周辺の中郡では六五・一四%(男九〇・四九%、女三七・〇〇%)、南郡では六〇・九〇%(男八九・〇〇%、女三〇・二二%)県全体の就学率は五七・三五%で、うち男七八・九八%、女三二・四五%にすぎなかった。この数字はいかに本県の女子教育が立ち後れていたかを如実に示すものである。
 弘前市は市勢振興の一環として、早くから高等女学校設置に名乗りを上げていたが、県は臨時県会で、本県初の県立高等女学校を弘前市に設置することに決定した。競争相手もなく、すんなりと弘前市に決まったのは、女子就学率が最高であったことが幸いしたのである。
「県立第一高等女学校」が開校したのは、明治三十四年(一九〇一)六月一日である。本県最初の高等女学校として、その開校式は華麗を極めたものであったという。来賓のなかでも目につくのは、第八師団の立見師団長をはじめ、軍のお偉方が綺羅星のごとく参列していることであり、ほかに、判事、検事、両院議員、視学官、市長師範学校長、県会議員、市参事会員、市会議員などが居並んでいた。
 開校式の様子を第一回卒業生山本いしは次のように述べている。
開校式には県知事を始め、各界の名士が参列しましたので、私共はタンスの底をかきまわして、エビ茶袴の盛装で出席しました。何しろ青森県最初の女学校開校式ですから、先生も生徒もハイカラな処を見せたいのは当然です。軍医の奥さんだった清水先生などはカレドニアンという一種のフォーク・ダンスを生徒に教え、それを当日の式で発表しました。封建的な城下町である弘前市民がこれを黙っているはずがありません。翌日の弘前新聞には「ゼイタクだ、外国カブレだ」とさんざん叩かれる始末でした。
(原子昭三編『母校今昔』)

 この文章からも開校当初のおおらかな雰囲気が具体的に想像できる。当時の女学校の生徒は学業も優秀で、良家の子女が多かったから、のんびりしていたともいえよう。
 第一高等女学校の第一回卒業証書授与式は、三十七年(一九〇四)三月二十二日に挙行された。開校のときの五〇人のうち卒業生は三六人であった。これは途中退学したのが一四人あったためで、そのほとんどは結婚のための中退である。卒業式は午前九時に始まり、永井直好校長から「良妻賢母たるは難し、而して其の難きを知る者は良妻賢母たるを得ん」と告示があった。当時の女学校の教育が、良妻賢母の育成を目的としていたことがこのことにもよく表れている。
 四十二年(一九〇九)四月一日、青森県第一高等女学校は「青森県弘前高等女学校」に改称された。こうしてこの年から弘前市民にも親しみ深い「弘高女」という呼称が始まった。

写真112 弘前高等女学校生徒
(明治40年ごろ)