菊池は、初め佐々友房の帝国党に所属した。佐々は熊本藩士、国権論者で教育者でもあり、陸羯南の対外硬運動などに参加した。翌三十七年の選挙で、菊池が、縁もゆかりもない青森市からの立候補で憲政本党の元代議士徳差(とくさし)藤兵衛に勝ったのは、中央で新聞記者として活躍し、政府要路の知遇を得、推薦支持があったのを青森市の政友派が利用したとみられる。また、青森市は、前年十二月まで弘前士族で国士肌の笹森儀助が市長であり、その後任の芹川得一も弘前士族で東奥義塾の先輩、有力な県会議員で参事会員だったのも有利に働いたのだった。帝国党は初め元田肇らも属し、衆院で二〇人を数えた。のち無名倶楽部となり、明治三十九年島田三郎、尾崎行雄、河野広中らと猶興(ゆうこう)会を結成、所属代議士は三六人、さらに明治四十一年に又新(ゆうしん)会となり、代議士は四四人だった。四十一年の総選挙で、菊池は政友会の大坂金助に敗れた。菊池の所属する猶興会は都市部選出議員が中心で、弁護士やジャーナリストが多かった。そして政界革新運動を起こし、反政友会勢力の中心となろうとしたが、失敗していた。
明治四十五年五月の西園寺内閣で行われた第一一回総選挙では、菊池は政友会に所属し、弘前から出馬、市政刷新会の伊東重を退けた。そして、桂内閣打倒の憲政擁護運動の中心人物として華々しく活躍した。このとき、桂は国民党や中央倶楽部、政友会の一角を切り崩し、元猶興会の河野広中、島田三郎を集めて新党(立憲同志会)の結成を画(はか)った。菊池は新党を偽党といって猛烈に批判した。
政友会中郡分所も大正二年一月三十日弘前住吉館で総会を開き、石郷岡文吉、佐藤要一、石岡粕太郎の三人が憲政擁護の演説をし、次の宣言文を出した。
惟(おも)ふに帝国憲政施行以来既に廿有余年 憲法ありと雖(いえど)も未だ其実挙らず 国家の基礎今や漸く危からんとす 之れ皆閥族官僚の非違横暴の行動に職由(しょくゆう)せずんばあらず 是故に吾党は茲(ここ)に立憲の大義に基き閥族官僚の打破、憲政擁護を以て大正維新の時代に処する最大急務なるを認め勇往猛進誓って之が遂行を期す
大正二年一月三十日
大正二年一月三十日
立憲政友会中郡分所
かくて桂太郎内閣は二月十一日退陣し、薩摩閥の山本権兵衛海軍大将の内閣が後継内閣として二月二十日成立した。大臣は、首相・外務大臣および軍部大臣以外はすべて政友会から出た。原敬が元老と妥協したもので、憲政擁護運動に熱心な二九人が政友会から脱会した。菊池も脱会したが、他の青森県の政友会代議士は政友会に残った。菊池は尾崎行雄らと政友倶楽部を結成し、運動を進めたが、倶楽部は十二月、中正会となり、立憲同志会、国民党とともに非政友三派を形成して第一次山本内閣と対決、シーメンス事件で山本内閣を倒し、第二次大隈内閣の与党となった。菊池はシーメンス事件で遊説して歩いた。大隈内閣は総選挙には大勝したが、大浦兼武内相問題で内紛を起こし、七月に改造して延命を図った。このことに憤慨した菊池は、中正会の尾崎行雄らとも対立、翌年二月中正会を脱退、翌三月政友会に復帰した。大正五年十月同志会と中正会が合同して憲政会を結成した。