青森県における普通運動

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青森県においても、納税額によって選挙権を決めることの錯誤は、すでに大正三年の『弘前新聞』の論者が指摘するように、貴族院議員選挙であれ、市会議員選挙であれ、露(あらわ)になっていた。しかし、それが普選運動として展開するのは、普選運動の後期といわれる大正七年以降である。そして担い手は憲政会だった。
 大正七年九月十六日、青森市公会堂において憲政会青森県支部大会が開かれ、加藤高明総裁ら党領袖(りょうしゅう)来会のもと寺内内閣打倒の宣言を出し、決議において「選挙法を改正して選挙権を拡張し、別表の改正増員の実行を期する」とした。大正八年十二月、憲政会は支部総会の決議において、普通選挙の実行を期することと目標を明確にした。このときの支部長は八戸の奈須川光宝であり、主幹は浪岡の工藤善太郎、西郡稲垣村の長内則昭だった。弘前の政党人から工藤道生佐藤要一が指導的地位にいた。このとき、政友会北郡分所は長尾角左衛門を中心に、衆院選挙の基準人口が郡部一三万人以上、市部三万人以上とあるのは参政権の公平を欠くとして、人口率改正を貴衆両院に請願した。
 大正九年十二月二日、憲政会支部総会は、宣言の中で「世界思潮の先駆にして愛国的国論たる普選の実行を拒否して国民思想の動揺を招き、労資協調の本義を没却して社会の安定を欠く等その失政実に枚挙にいとまあらず」と原内閣を批判し、決議の第一に現内閣の更迭、第二に普通選挙の即行を挙げた。
 これに対し、同年十二月十二日の政友会支部総会の決議の第一は米価の暴落による農民救済、第二は青森港改築の国営化、次に十和田水田事業、南部鉄道、十和田鉄道、小泊鉄道、目屋鉄道、来満鉄道、大間鉄道の敷設、県立中学校の増設などだった。
 大正十年十二月二十一日、憲政会支部総会はついに決議甲号のトップに「普通選挙制度の実現を期す」を挙げた。大正十一年二月二十二日、青森市公会堂において青森記者団は普選大会を開いた。宣言文並びに決議は次のとおりである。
    宣言
 憲政布かれて正に三十三年帝国議会を開くこと茲に四十有五回世運は急速の進展を遂げ、時代は不合理なる制度の改造を促して息(や)まざる 今日単(ひと)り我議会政治は却って逆転を続け、政界醜陋事の頻出は人心に悪影響を及ぼし、政党改造の声のみ徒らに高くして実質は益々退化しつつあり 内治は時勢の進運に副はず 外交は不信を累ね国威を損ずること夥(おびただ)し
 是れ他なし議会の民意の完全に代表されず 言論の自由は圧迫さるる為めにして事の茲に到りたるは畢竟するに憲政の大精神に背反せる制限選挙の齎(もたら)せる結果に外ならず既に民衆の一部には醜悪なる議会の現状を呪ひ直接行動を説く者あり 速かに立憲の大道に遵(したが)ひ 普通選挙を実施するに非れば国運の危機は刻々迫れり 吾人は普選の断行を以て急務中の急務なることを確認す
     決議
一、吾人は明治天皇の聖訓に拠る普通選挙の即時断行を期す
一、普通選挙を阻止する者は国民の公敵として之を排斥す

 記者団の代表は、のちに東奥日報社社長として敏腕をふるった山田金次郎で、普選促進会を代表して梅村大と飯島某の両弁護士が挨拶している。
 大正十二年八月、上北郡江渡由郎らは南部立憲青年党を結成、河野盤州を招いて結党式を挙げた。その宣言文は「現時の危機は局部的治療法を以てはなしえず、第二維新の大業によるのみ、そのためには普通選挙の即行を期す」という。工藤鉄男もこのグループだった。十二年十月二十三日、憲政会南郡分所事務所落成式で、分所長成田匡(きょう)之進は震災後の混乱を憂い、「金力に阿(おも)ねられず、大正維新の実現の為普通選挙の即行」を宣言した。また、五所川原青年会長外崎千代吉も、青森市歌舞伎座で工藤日東とともに普選断行演説会を開いた。
 また、県下政友会でも、竹内清明の横暴に一部党員が反発し、中郡でも小山内徳進らが脱党し、憲政派の藤田重太郎と手を握り、中郡倶楽部を組成した。十一月二十九日の発会式の発起人は、代表が小山内徳進藤田重太郎、発起人は、豊田村-小山内徳進・一戸顕、高杉村-藤田重太郎、大浦村-齋藤晋作笹義幹、岩木村-三上誠一、堀越村-葛西勉、千年村-古川和吉、駒越村-佐藤徳美、船沢村-対馬忠郷対馬竹五郎、郡外-花田倫であった。