大正期には株式会社の新設が著しく、運送業においても大正十年に既存の澁谷運送店を母体に丸叶弘前運輸株式会社(取締役社長福嶋藤助、専務取締役澁谷広吉)が創業した。大正四年刊行の『弘前市商工案内』の運送の項には、「停車場前 丸叶 澁谷広吉」のほか、「丸ホ 關利三郎、丸通 山崎範正、丸大 小田桐政信、丸弘 竹森勇次郎」の名があり、いずれも停車場前で営業していた。
自動車に関しては、明治の末に個人所有の自動車が運転されていたというが、乗合自動車の開始は大正十年(一九二一)九月、和徳町の大塚自転車店主により企画され、その後昭和初年までには大塚多三郎、花岡文次郎、田村勘徳、齋藤吉六、對馬才八の五人が営業し、その台数は一〇台であった。乗合運転区域は市内を三区に分けて各区とも一〇銭均一制をとって、弘前駅での列車の発着に合わせて駅から各区へ運転した。その他市外行きとしては、中津軽郡岩木村百沢・岩木山神社及び嶽温泉方面行き、南津軽郡藤崎町行き、南津軽郡柏木町村(現平賀町)方面及び北津軽郡板柳町方面、中津軽郡相馬村方面があった。また、乗合以外の営業者は一七人でその台数は二八台、自家用車の所有者は四人で台数は四台、貨物運搬営業者数は三人で台数は三台であり、弘前市内における運転免許状所持者は四〇人であった(『青森県総覧』東奥日報社、一九二八年)。
なお、昭和初年の段階で、人力車組合並びに中弘乗合馬車組合が存在したことから、庶民の足としてはまだ人力車や乗合馬車が活躍していたことがわかる。大正四年に青森県から刊行された『青森県治要覧』には「而シテ青森・弘前間ニ於ケル、国道ヲ通行スル荷馬車ノ夥シキコト、全国稀ニ見ル所ト称セラル。汽車貫通後、稍其ノ数ヲ減少セリト雖、四輪車ノ荷馬車ハ県下到ル処ニ往来シ、海陸運輸ノ利便ハ、他ニ優ルトモ劣ルコトナシ。」という記述が見られる。