県立弘前高等女学校

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大正時代、県立弘前高等女学校の校長は三人いるが、第二代の永井直好は明治三十六年(一九〇三)から大正十四年(一九二五)三月まで、実に二一年余にわたって校長を務めた。
 これと逆に教員の勤続年数は短く、明治三十四年から大正九年に至るまでの平均年数は約二年という珍しい記録である。短い方では大正二年四月から教諭心得として奉職した神近市子(かみちかいちこ)(ジャーナリスト、社会運動家)が九月にはもう職を辞して弘前を去っている。退職の理由は、当時としてはまだスキャンダラスだった女権拡張論を展開する「青鞜社」に入っていたことが発覚したためであるとされている。国民的作家といわれた石坂洋次郎は、弘前市出身だが、十四年七月十五日から翌年の八月二十五日までのわずか一年余で、秋田県の横手高女に転勤している。石坂の場合は、作家志望のためとか人間関係のいざこざとかいろいろあるが、待遇がよく、そこにたまたま勤めていた数学の先輩に来ないかと誘われて転じたという説もある。
 明治三十二年の高等女学校編制及設備規則によれば、生徒の定員は「四百人以下トス但特別ノ事情アルトキハ六百人マデ増員スルコトヲ得」となっていた。弘高女は発足当時の定員は二〇〇人にすぎなかったが、大正十四年はついに六〇〇人に達した。学級数も増えて各学年三学級編制の一二学級となった。入学志願者の合格者に対する比率は二倍から三倍であった。弘高女への合格はなかなかの難関だったことがこれでよくわかる
 大正七年(一九一八)八月、夏休みを利用して四年生有志が北海道へ修学旅行を実施した。札幌を中心として開催中の開道五十年記念大博覧会を見学するのが目的であった。初めての県外旅行である。これまでは青森・碇ヶ関・黒石などへのいわば遠足にすぎなかったのが、本格的な修学旅行への幕開けとなった。
 弘高女には、大正時代の初めまでは制服はなく、めいめいが自前の服を着て登校していたが、やがてその和服も袂のあるものから筒型のものに、袴も短めで、編上靴や紐つきの短靴をはくようになった。大正に入ると、大正デモクラシーの影響下、新しいものや自由解放の思想が流行しはじめ、和服に代わって行動的な洋服が主流を占めるようになった。弘高女ではそのような時勢に合わせて、大正十一年の新入生から市内女学校のトップを切って制服を定め、かつ、セーラー服とした。それと同時に活動しやすいブルーマーに白のシャツが運動着となり、この頃からいわゆる女学生の服装といえばセーラー服が常識となった。

写真186 弘高女初めてのセーラー服(大正11年)

 弘高女スポーツの夜明けは意外な形でやって来た。
 大正十四年(一九二五)八月、県体協主催の第一回県下女子中等学校庭球大会が青森市で開催された。参加校は、弘高女・青高女・青女師・青森女子実業・八高女の五校であったが、試合は問題なく弘高女が他校を圧し、初の優勝旗を獲得した。このときから昭和三年にかけて四連勝して優勝旗を永久獲得した。まさにテニスにおける黄金期であったのである。
 スキーでは、大正十一年に工藤浅吉が着任したときから始まる。工藤は永井校長の支持を得て、すぐさまスキーの指導に当たった。しかし、これは女子保健の立場から反対の声が上がった。家庭を守り育児に励むのが女子の役割であるとする当時の常識からすれば無理からぬことであった。医師の間でも賛否両論があったが、これといった決定的判定もデータもない時代である、賛成派の医師の声を頼りに工藤教諭はスキー技術を生徒に仕込んでいった。
 大正十四年二月に新潟県高田市において第一回全日本女子スキー大会が開催されたが、以下に『工藤浅吉先生を偲ぶ』という文集から工藤自身の文章によってその参加までの経緯をみてみよう。
大正十四年二月十四日、十五日、第三回全日本スキー大会が大鰐スキー場で開催された。(中略)そこで当時の青森県知事、渡辺県視学官らは、同年二月二十一日新潟県高田市で開かれる第一回全日本女子スキー大会に弘前高女が参加するようにと私に勧めた。しかし、私は永井校長が承認してくれれば参加致しますと約束した。直ちに知事一行は永井直好校長を大鰐の旅館に呼び寄せてとうとう承認させてしまった訳である。

 突然のことで、スキーその他の用具の準備が大変だったが、十七日にはあわただしく弘前駅を出発している。しかし意外や意外、ほとんど各種目の上位を独占する好成績で、断然他を圧して優勝した。時事新報社の寄贈になる、初のトロフィーを獲得したのである。
 あまりにも突然の、しかも予想だにもしなかった、降って湧いた優勝の報に狂喜した学校では、さっそく国語担当の秋山幸子教諭に徹夜で優勝讃歌『津軽乙女の意気を見よの歌』を作詞させ、「全校の教員と生徒が弘前駅に馳せ参じて出迎え、駅から秋山先生の作詞した歌を歌いながら市中を行進し土手街を通って母校の門を感激のうちにくぐった」(『工藤浅吉先生を偲ぶ』)という。