不況の中にも軍国主義的意識の高揚が叫ばれ、工業学校の生徒の中にも連名で血判の檄文を軍に送りつける者も現れた。一方、この年、弘中では既述の嶽籠城ストライキが起きて、世間を騒がした年でもあった。工業の五年生一同、弘中のストに追随はせず、と声明を出したが、昭和七年六月、ストが決行された。『東奧日報』は。「弘前工業四年生 梵珠山に籠城 ストライキを起す」と報じた。
この日六月八日は四年生以下座頭石に遠足があり、五年生は修学旅行で留守だった。ストはかなり前から計画が練られていたらしく、四年生六八人は、遠足が終わって帰校解散後も自宅に帰らず、弘前駅と川部駅から乗車して大釈迦に向かい、そこから梵珠山に登った。山頂から二〇〇メートルぐらい下にある松倉観音堂に着いたのは、午後七時ごろである。
学校がこのことを知ったのは、夜になっても子供たちが帰宅しないのをいぶかった父兄からの問い合わせがあってからである。大竹校長は直ちに職員および四年生父兄を集めて協議の結果、とにかく下山させることを第一とし、校長以下職員一六人が自動車に分乗して現地に向かった。九日午前三時ごろ、松倉観音に着いた校長たちと生徒たちとの会見は、スト側の団結が固く学校側の説得を断固拒否したので、この日は物別れに終わった。九日午後には、父母三二人が登って下山を勧告したが、生徒側の意志は固く、これまた空しく帰途についた。生徒たちは、弘中嶽スト同様「ストライキ記念歌」を高唱して、意気盛んなものがあったという。
スト決行に際しては「宣言書」が出されているが、校内での暴力の横行、生徒の自由抑圧などを強調しており、前年に起きた弘中のストの決議文と共通する時代のリベラルな空気すら感じられるものである。大正デモクラシーの流れをくむ風潮の反映でもあるが、不況に翻弄される人間の抑圧が重くのしかかった戦争への不安ともあいまって、起きるべくして起きた事件ともいえる。
生徒たちの団結はなかなか固く、食糧や衣類などの差し入れもあり、ストは長期化の様相を呈し始めた。四日目には、数学担当の教諭が単独で登山し、教育者としての責任感から辞職の意を決して生徒の説得に当たるなどの動きもあった。六日目の十三日になって、父兄代表に校長が同行して梵珠山へ向かった。父兄らはストの非を諭し、校長は生徒の要求に誠意をもって対応することを約束した。スト団は協議の結果、下山することを誓い、ようやくストも妥結をみた。十四日、梵珠山上でスト団は解団式を行い、下山した。ストの処分は、参加者全員が停学五日間で済んだ。
写真72 弘前工業生スト終結し帰校(昭和7年6月)
昭和十年四月、校名を青森県立工業学校から「青森県立弘前工業学校」に改称した。改称前は「青工」で紛らわしかったが、晴れて「弘工」という略称が生まれた。
スポーツの活躍については、昭和四年、誕生間もない野球部が県下少年野球大会において初優勝を遂げ、明治神宮外苑グラウンドで行われた全国少年野球大会への出場権を得たことがまず挙げられる。この大会では、一回戦の厚い壁を破ることはできなかったが、野球部として最初の全国大会への出場となった。しかし、期待されたものの、以後の活躍は、戦後まで待たなければならなかった。
弘工のめざましい活躍の一つに乗馬がある。創部一〇年目に当たる昭和十年に、第八回明治神宮体育大会馬術競技で、第一位、二位を独占し、見事優勝の栄冠をかち取ったのである。十二、三年ごろからは戦時色が濃くなり、スポーツにも規制が強くなり始めてきていたが、このころが弘工のスポーツの隆盛期でもあった。競技(陸上)部も県下での団体優勝はなかったものの好成績を上げており、昭和十三年の青森弘前間駅伝では堂々の優勝をした。庭球部は、昭和初年にはすでに三回の県内制覇の実績があったが、十四年五月には関東東北北海道中等庭球大会に優勝、七月の県下中等学校庭球大会も制し、貫録を見せつけた。
太平洋戦争に突入すると、軍需品の消費量が増大し、軍需産業もより多くの技術者を早急に養成する必要があった。十七年には電気科を新設したが、二十年には、本科一二〇〇人、専修科二四〇人、計一四四〇人という大所帯になっていた。しかし、定員は増えたが、実質は必ずしもこれに伴うものではなかった。戦時体制への協力が不可欠のこの時代では、勤労奉仕や学徒動員が優先され、校友会は報国隊に組織替えとなった。修学旅行も男子中等学校合同聖地旅行参拝団の形で実施されている。
本土決戦が叫ばれるようになると、上級生は三沢航空廠(しょう)分工場に建築科・土木科、大湊航空廠には機械科・電気科、青森造船所に木材工芸科と動員されている。残った下級生も草刈りや開墾、農作業などの勤労奉仕に従事する毎日が続いていた。学徒動員や勤労奉仕に明け暮れているうちに、あの八月十五日がやってきたのである。