弘前市の観光政策の主体が観桜会にあることはいうまでもないだろう。ねぷたと並び、今日でも弘前市の観光名物として全国にその名を知られている。しかし戦後の観光ブームに乗って出発した段階では、いろいろな工夫・苦労があった。ここでは占領行政が終了する前後の観桜会に関する市当局や商工団体の運営実態を紹介しておこう。
日本の祭りの名物として、どこでも屋台などの露店業が盛んである。毎年開催される桜をメインとする祭りでも、さまざまな屋台が連なり、通行人に呼びかけている風景を見ることができる。戦後間もないころの観桜会にはたくさんの露店が軒を連ねていた。しかしこの露店は水道設備の問題など、衛生上から問題視されることが多かった。私的な運営形態ということで、時になわばり争いや暴力問題が生じたり、観光客から暴利をむさぼる店も出たりするなど、露店経営については、常に風紀上の問題がつきまとっていた。
露店業者の側からも、公園内にある料理屋が特権扱いされているとして、自由な営業を求める陳情も相次いでいた。こうした観桜会を通じての主導権争いや暴力沙汰、衛生問題や観光客とのトラブルの解決には、市の関係職員や公園管理事務所の職員たちが対応し、献身的な努力を続けていた。彼らの活躍を中心に、観光協会や商工会議所が協力することで、観桜会の運営は改善されていったのである。
観桜会の運営に関して運営委員会の報告書を見ながら概要を紹介してみたい。昭和二十五年(一九五〇)三月二十五日、弘前商工会議所で開催されたものを事例としてみよう。そこでは市と商工会議所が共同で観桜会を開催し、日程や運営内容の問題点を検討し合っている。弘南バスの運行に関しては、弘前駅と公園の往復乗車券のほか、片道乗車券を発行するよう同社に申し込むこととしている。馬車の料金もバスと同一とするため、馬車組合に申し入れ、折り合いがつかなければ公園のたまり場を貸さない方針としている。写真業者も市外から多数公園内に入り、悪質なものも多かった。そのため公園内で営業するには弘前写真組合長の副申書をつけた許可願いを運営委員会に出させ、許可のあったものには腕章をつけさせることにしている。取締りは写真組合で自主的にやらせるとした。その他、興業物に関しては風紀上、いかがわしいものは厳重に取り締まり、公園内の商店、飲食店には価格表を明示させることとしている。
こうした運営委員会の結果を踏まえ、観桜会に関し警察当局や弘南バス、写真組合などとの打ち合わせがなされたのである。