相次ぐ火災

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水害同様に火災も市民を恐怖に陥れた災害であった。火災は人災的側面が強く、他の都市と同様、数多く起こっている。昭和四十四年(一九六九)五月発行の『弘前市地域防災計画及び弘前市水防計画』(弘前市立図書館蔵)に載せられている火災の記録を見ると、全焼二〇戸以上の火災だけでも、戦後の昭和二十二年四月十五日の火災から、昭和四十二年五月十日までに一四件も起こっている。昭和戦前期には昭和二年の北横町と、昭和三年の富田町の大火しかない。弘前市は空襲による罹災もなかった。けれども戦前期の二つの大火は前者が全焼三〇〇戸以上、後者が六〇〇戸以上という莫大な被害を出している。それに比べて戦後の火災はいずれも全焼は二〇~三〇戸程度にすぎない。それだけ消防制度と設備が向上し、家屋も火災に強いものへと変わってきているからである。
 一般民家の火災だけでなく、公共施設もかなり火災に遭っている。昭和二十四年四月十四日に津軽病院が全焼、死者七人、負傷者七人を出した。四日後の二十八日には弘前税務署が全焼、負傷者三人が出た。同年十月十二日には時敏小学校から出火、同月二十三日には朝陽小学校が全焼、いずれも負傷者三人ずつを出した。同年十二月三十一日には弘前裁判所が全焼した。この年は弘前市の公共施設に火災が連続している。
 さらに昭和三十二年十月二十五日には弘前駅前の映画館が全焼した。昭和三十五年五月二十四日には陸奥新報社が全焼、昭和三十七年八月五日には護国神社が全焼している。昭和三十九年四月六日には土手町の「角は」宮川デパートから出火、負傷者三人を出した。昭和四十二年十二月九日には新鍛冶町のバーから出火、一酸化炭素中毒で死者二人、重軽傷者八入の被害があった。昭和四十四年一月三十一日には県立弘前高校から出火、校舎一棟が全焼し、同日中に市立津軽病院も全焼している。とくに最後の県立弘前高校と市立津軽病院という公共施設が、同じ日に立て続けに火災に遭ったのは、弘前市では初めてのことだった。弘前高校の場合は、水の便の悪さが大事を引き起こし、津軽病院も水圧が低く消火活動が思うにまかせず大事となった。いずれも水道設備に欠陥があったことが原因だった。

写真238 市立津軽病院火災

 戦前の大火がそうであったように、戦後の度重なる大火・小火が街並みを変えていった。家屋の構造が火災に弱い木造から鉄筋コンクリート造へと変わるなど、建築物構造の変化も重要だが、火災後の街並み整備なども無視できない。火災後の復旧計画のなかで、開発政策に触発され、新たな街づくりを呼び起こす動きも確実にあった。しかしながら昔ながらの親しまれた街並みが失われたことも事実である。火災は一面で古い因習や汚れた街並みを再開発して清浄する側面をもっている。けれども古き良き習慣や人間関係、伝統ある建物、周りとなじんだ景観を、一気に喪失させてしまう恐ろしい力も兼ね備えているのである。