学校における音楽

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明治五年(一八七二)に東奥義塾が設置され、続いて、明治六年(一八七三)に一番小学(現朝陽小学校)、二番小学(現和徳小学校)が開設され、それぞれに教科の中に唱歌として音楽が含まれていた。しかし、公立の学校では教えるべき内容は定まらず、教師もいなかった。伊沢修二が中心となり音楽取調掛を設立し(明治十二年)、音楽教育の方向づけをしたことは、民謡の項で述べた。教科書『小学唱歌集』初版が刊行されたのが明治十五年であった。公立の小学校で実際に授業が行われたのは明治二十年代になってからであった。それは国家主義的教育の浸透を図る目的で、《君が代》などを教える必要性が叫ばれたためであった(通史近・現代1第一章第四節第四項「学制の実施」参照)。文部省が《紀元節歌》を学校へ送付したのは明治二十一年であり、この全国的な傾向に従ったのは青森県とても例外ではなかった。
 東奥義塾キリスト教の精神に基づく学校であるので、当初から讃美歌が歌われていた。明治九年(一八七六)七月十五日には、来県された明治天皇の前で《天皇讃歌》を讃美歌(旧五〇番)の旋律により英語で歌っている。外人宣教師、その妻などが地域に西洋音楽を紹介していったのは、弘前女学校(現弘前学院聖愛高校)も同じであった。比較的に記録が残されている東奥義塾音楽活動を概観すれば、弘前地区の音楽文化の様相が窺い知れる。
 東奥義塾生による「トニック会」が明治三十九年結成され、会歌ができている。明治四十年十一月に三年生によるストライキがあり、ストライキを歌った歌もつくられている(前掲「津軽民謡史 明治篇」)。
 再興義塾(大正十一年開校)にあっては音楽活動が活発に行われた。開校の年の十月には音楽大会が催され、サキソフォーン、フルート、バンジョーの独奏曲などが外人音楽家によって演奏された。生徒も教頭の関権次郎(せきごんじろう)、アイグルハート夫人などの指導のもと開校初年から活動を始め、基金募集によって購入したピアノを用いて、その年のクリスマスには合唱曲を披露している。二年目、三年目には《ハレルヤ》を演奏し、四年目には笹森四郎(ささもりしろう)教諭の指導のもと、グリークラブが結成された。六年目には戸沢武(とざわたけし)(元陸奥史談会会長)が委員の一人になって音楽会を開催しているが、ピアノ独奏《モツアルトのソナタ》、ハーモニカ合奏《忘れな草》、合唱《野ばら》などであり、洋楽の普及度とレベルが推測できる。その伝統が続き、例えば一〇回生の虎谷一郎(とらやいちろう)(元弘前市教育長)や田澤吉郎(たざわきちろう)(元衆議院議員)などが音楽会で活躍した記録が『学友会誌』に残されている。青森県作曲家協会の創立者阿保健(あぼけん)も東奥義塾の卒業生(二回生)である。
 県立女学校(現弘前中央高校)は明治三十四年(一九〇一)に開校し、第一回音楽演奏会を音楽教室で催した。以後、日露戦争祝勝、関東大震災救済などの名目で折ごとに音楽会を開催している。明治三十八年には今(こん)しげが四年生でオルガン、今(こん)ゆきが補習生でバイオリンを「年忘れ交友会」で奏している。明治三十七年に催されたときの音楽会の写真が残されている(写真287)。バイオリンは教員の小関得久(こせきとく)であった。今しげ(明治一六-昭和三八 一八八三-一九六三)は東京音楽学校を明治四十四年に卒業、同年から昭和十一年まで県立女学校の音楽教諭を務めた。こうした伝統を引き継ぎ、第二次大戦後は音楽クラブが合唱コンクールで金賞を取るなど好成績を上げている。

写真287 バイオリンとオルガン(明治37年)


写真288 今しげ

 弘前大学では、近年であるが、「混声合唱団」、「フィルハーモニー管弦楽団」を初めとし、他の音楽団体も地域の音楽文化を支えている。