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(八)三好長慶

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 三好長慶始めの名は範長、小字は千熊丸、更らに孫二郞といひ修理大夫に任ぜられ筑前守と稱した。十歳の時、父元長顯本寺に自殺し支族三好宗三及び松永久秀等の補佐するところとなり、天文八年十七歳にして兵を率ゐて京師に入り、同十七年十月名を長慶と改めた。是より先き、同族宗三權を擅にして父元長を攻殺したので、長慶は之を郤けんとし、屢々之を細川晴元に請ふたが、聽くところとならず、却つて宗三を援くるに及び、遂に同十七年十月遊佐長教と謀り、細川氏綱を奉じ同十八年二月堺に入り、三月宗三を伐つて之に克ち、進んで十河一存をして晴元を三宅城に攻めしめ、江口の西を抑へしめ、【三好宗三の攻殺】長慶其東を襲つたので宗三支ふる能はずして敗死した。晴元嵯峨に退去し、次いで義晴及び義藤を奉じて近江に走つた。長慶卽ち七月京師に入り、松永久秀を留めて其後を鎭めしめ、次いで攝津に歸つた。二十一年正月亦京師に入り、和成つて將軍義藤に謁し、【長慶の威權】以後威權を京攝に振ひ、永祿三年には相伴衆に列せられた。是時に方り、長慶事を以て畠山高政を郤け、弟實休と共に河内に入り、高政を破り之を紀州に追ふた。又畠山高政を討つて、飯盛城に入つて河内を併せ、久秀を遣して大和を徇へしめた。然るに近江の六角義賢は晴元の二子晴之を擁して將軍山に陣し、之に呼應して高政逆擊の報頻に至るを以て、長慶は子義興松永久秀をして之に對せしむると共に、實休をして岸和田に抵らしめ、安宅一康、三好山城守等をして之に對せしめた。【實休の戰死】翌五年三月實休久米田に陣し、流矢に中つた戰死した。(己行記、三好別記)是日長慶は飯盛城に在つて、弟冬康、宗養及び紹巴等と、連歌會を催したが「すゝきに交る葦の一むら」の句あり、人々其附句に艱んだ。會々此時實休の悲報が達した。【長慶の沈勇】長慶自若として「古沼の淺き方より野となりて」の附句を詠み、會終つて徐に口を開いて、弟實休は戰死した、吾これより發せんと、直ちに座を立つたといふ。(三好別記)高政等は三月中旬飯盛城を圍んだが、長慶固守して拔けず、既にして康長、冬康、久秀等と教興寺に高政を夾擊して之を破り、畿内悉く平定した。次いで六年八月其子義興、久秀に毒殺せらるゝに及び、長慶は十河一存の子義繼を養ふて嗣子とした。【義興の暴死と長慶の落膽】而も義興の死を悲しむの餘り、終に政務を執らず、所謂三好三人衆實權を執るに及び、久秀の橫暴益々甚だしく、七年六月冬康を讒殺した。後長慶は其罪なきを知り、怏々として樂まず、【卒去と祕喪】病勢を強め七月四日終に卒去した。(泉州龍山二師遺藁)享年四十三。祕喪二年の後、九年六月河内國眞觀寺に葬つた。此時笑嶺導師となり、又十三日より三七日間に亙つて其養子義繼施主となり、【南宗寺の供養】南宗寺に於て莊嚴なる供養を行ひ、大林宗套其導師となつた。法號を聚光院殿前匠作眠室進公大禪定門といふ。(泉州龍山二師遺藁

第四圖版 三好長慶畫像

 
 

第五圖版 三好長慶墓碑(京都市大德寺聚光院墓地)

 
 
 長慶大林に參禪して深く禪要を究め、弘治二年父元長追福の爲めに南宗菴を移轉し、三好神廟を始めとして輪奐の功を竣えた。是に於て、【南宗寺の創建】菴を改めて南宗寺と號し、大林を開山とし、三年五月開眼供養を行ひ、河泉の内三萬石の油田を寄進した。(大林和尚塔銘、南宗寺創建記(全堺詳志卷之上))