宗陳、字は古溪、自ら蒲庵と號した。(紫巖譜略、寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)越前朝倉氏の出である。長じて驢雪霸公に就いて得度し、幾何ならず足利學校に遊んで外典を修め、後大德寺の江隱宗顯に參じ、春屋宗園等と相硏鑽した。三十歳の時、江隱の示寂に會し、其法嗣笑嶺宗訢に師事することゝなつた。【大德寺出世】天正元年勅を奉じて大德寺第百十七世に出世した。(寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)道譽一世に高く、【秀吉の崇信】頗る豐臣秀吉の崇信する所となり、同十年秀吉總見院を大德寺内に創建し、織田信長の功德場となすに及び、請して、開祖たらしめ、信長の葬儀には導師となつた。(續日本高僧傳卷第十一)後南宗寺第五世となり、(南宗寺歷世年譜)天正十三年三月秀吉紀州の根來寺を征し、傳法院を破毀して之を堺に移し、海會寺を再興した際にも、宗陳を請して開堂演法せしめた。(續日本高僧傳卷第十一)同十四年秀吉は又萬歳山天正寺を舟岡山に創建せんとし、意見を徵したが奉行石田三成と相協はず、【太宰府配流】太宰府に配流せられた。既にして天正十八年赦に會して大德寺に歸つたが、同十九年二月、三十年參究の徒である千利休、秀吉の旨に忤ひ自刄を命ぜられ、【大德寺破壞一件】嘗て利休が大德寺の山門に自己の彫像を安置せる僭越を憤り、德川家康等の四使を派して紫野の伽藍を破壞せんとした。古溪四使に對して無道を諭したが、應ぜざるに及び、古溪乃ち懷中から匕首を出していふ、法の衰替今此通りである、老衲唯死あらんのみと其決心を示し、遂に四使の寬宥するところとなつた。(秀吉將軍記卷中)同十九年正月豐臣秀長の卒するや、【豐臣秀吉法要導師】秀吉の懇請により法要の導師となり、文祿元年大光院の落成を告ぐるに及び、之に居ること一年、翌年の春紫野に歸り、先師の遺跡に歷住したが、後洛北市原の常樂院に隱栖した。(續日本高僧傳卷第十一)古溪亦茶湯を好み、永祿十一年二月並びに同十二年十一月の津田宗及の茶會に列し、又元龜二年三月に催された宗久の茶會にも出てゐる。(今井宗久茶湯日記)文祿五年八月重患に罹り、殆ど危篤に陷るに及び、弟子其遺偈を需むるや乃ち書して曰ふ、「六十餘年、胡喝乱喝、末後轉機、不作二一喝一。」と。【禪師號敕謚】慶長元年十二月後陽成天皇は特に大慈廣照禪師の徽號を賜はつた。翌二年正月十七日世壽六十六歳を以て示寂した。著書に蒲庵稿二卷がある。(續日本高僧傳第十一卷)