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(七四)谷宗臨

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 谷宗臨は名を守光といひ、通稱を善三郞と稱した。眠牛齋宗本居士の長子で、大德寺僊嶽宗洞の俗兄に當る。【家系】家世々堺の豪家を以て知られた。本性は紀氏、朝廷に奉仕すること數代、男山八幡の邊に住した。因つて志美津と稱し、後谷と改めた。寬正年間近江掾安正に二人の子があり、長兄を源三郞安種と稱した。卽ち谷家の始祖である。(谷家系圖、瑞雲寺略記)【和歌並びに連歌を善くす】宗臨は細川藤孝に和歌を學び連歌をも能くした。又牡丹花肖柏の高足下田屋宗柳より古今集の奧旨を傳へ、劍道、馬術をもよくし、(神國和歌正流血脈之卷)茶湯千利休に學び、(數寄者名匠集)南宗寺大林宗套に參禪して、大成の道號を附與せられ、呼雲齋大成宗臨居士と號した。(泉州龍山二師遺藁)【圓悟の墨蹟】家に圓悟禪師の墨蹟があつた。もと大德寺の塔頭大仙院の什寶であつた。是より先き薩摩の堯甫と稱する僧侶、一日海上に漂流物を獲取つて之を觀るに、一の桐筒で、中に一卷軸があつた。卽ち圓悟が虎丘に付するの親書の印狀であつた。堯甫怪しみ且つ喜び、私すべきものにあらずとし、之を携へて京都に上り、紫野の古嶽和尚に贈り、竟に大仙院の什寶となつた。然るに天正中笑嶺和尚のとき、千利休の斡旋により、宗臨の有に歸した。(祥雲寺略記)宗臨の子に長左衞門時安(放牛齋立翁宗卓居士と號し、今井宗久の女を娶つた。元和元年六月十七日享年五十八歳を以て歿した。其妻は法號を利峰瑞貞信女といひ、享年八十一歳を以て正保二年二月十一日歿した)あり、(谷家系圖)伊達政宗に仕へて二千石を領した。(神國和歌正流血脈之卷)時安の弟は卽ち大德寺雲英宗偉である。宗臨慶長六年十一月二十六日享年七十歳を以て歿した。(谷家系圖)