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起請文の事

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 ハウカセはこのように松前藩の交易中止にも屈しない強気な言をはいている一方で、「我々先祖は高岡え参商仕候。松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゞ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく」(津軽一統志)といい、リシリ、ソウヤのアイヌにしても「此度つくなひにて和談究候所に、若其段やぶれ候て、商船も不参候へは、我々共迷惑仕候事」(津軽一統志)ゆえ、話し合いで首尾よく行くようにとヨイチまで来たといい、また松前藩としても、「松前当年舟数渡河不仕候事は去年(寛文九年)当年両年の内上下地より商物一切不参候に付て、舟乗下し不申候由。舟着岸仕候ても積物無之候故不参候由。只今は地廻のにしん、昆布、串貝計に御座候」(寛文拾年狄蜂起集書)という状況で、干塩引鮭などの商品が移出できず、藩財政上にも支障を生じていたのである。
 かくて松前藩は寛文十年、松前左衛門広諶らを西蝦夷地に派し、広諶らがヨイチに進むと、西夷五八人が「つくなひ」を出し降伏したので、七条の起請文をもってし、牛王(ごおう)(当時嘘をついた者がこれを呑むと、その罰で血を吐くとして誓詞には必ず用いる風習の護符)を焼いて呑ませ、服従を誓わせたが、外に所々で牛王を呑ませ、東夷でも数百人から誓詞をとっている。
   起請文の事
 従殿様如何様成儀被仰掛候共、私儀は勿論孫子一門並うたれ男女に不限逆心仕間敷候事。
 殿様え逆心を企申歟、御苦労に罷成儀工(たくみ)申夷承及候はゞ随分異(意)見仕、其上承引不仕候は何とぞ通路於罷成は早々御注進可申上候事
  附り 仲ケ間出入御座候はゞ随分面々手立に及申儀に御座候はゞ取扱可申候。
 殿様御用にてしやも浦々罷通り(候)はば少も如在仕間敷候。縦しやも自分用にて罷通り候共随分馳走可致候。
 御鷹待金掘に少も如在仕間敷事。
 従殿様向後被仰出候通商船え我儘不申懸、互に首尾好商可仕候。余所の国と荷物買取申間敷候。我国にて調申荷物も脇の国え持参仕商売致間敷候。人の国にて取申皮、干、我国え持参仕売買致者、跡々より仕付候通り可致事。
 向後米壱俵に付皮五枚、干魚五束商売可仕候。新物、たはこ、金道具に至る迠米に応、跡々より高値に商買可仕候。荷物等沢山に在之年は米壱俵に皮類も干魚も下直に商売可致事。
 殿様御用にて状使並御鷹送り申儀、其外伝馬、宿送り、昼夜に不限少も如在仕間敷候。御鷹飼犬あたひ出し不申候共無生(遅々)に出し可申事。
右之旨、私儀は勿論、一門並うたれ男女に不限少も相背申間敷候。若相背候者於有之は神々之蒙御罰、子孫迠絶果可申候。仍て起請文如件。
寛文十一亥年四月 日

(蝦夷蜂起)


 この誓詞によってアイヌは藩主に忠誠を誓うという完全に松前藩の被支配者の立場に置かれることになり、交易も従来の対等の贈答の形で行われていたものが、物々交換の取引の形に変わり、かつ他藩との取引も厳重に取締られることになった。米一俵に皮五枚、干魚五束(一束は二〇本)とあるが、一俵の内容の記載がないのは、時に変わることを前提として記載しないものと思われる。荷物が沢山ある年は米一俵に皮類も干魚も安値で商売することとしているのは、それを意味する。紛争二〇年後になるが、元禄元年(一六八八)、商船扱いで、イシカリ川に来てアイヌの事情を探査した水戸藩快風丸の記事には「生百本を米一斗二升に換申候。其外酒五升にも煙草一斤にも換申候。是ハ松前より常に此通に定置き候由」とあり、干でなく生になっているが、一俵七、八升まで減らされていた米が、この紛争で五升前後戻ったことになろうか。なお快風丸夏商になる熊皮、干ラッコの皮トドの皮を積んで来ているが、これらの品の交易先は松前藩のみであることを再確認させている。